歌舞伎D-13
04

宝暦から安永

四代目

市川團十郎

空白の名跡を継ぎ、荒事ではなく実悪に活路を見出す

生没年
1711–1778-02-25
團十郎を名乗った期間
1754-11–1770
襲名時の年齢
44
前名・俳名
松本七蔵(初舞台の名)/二代目松本幸四郎(1735年に襲名)/随念(1776年の引退後に名のる)

30秒で分かる、この代の團十郎

江戸堺町の茶屋の次男とされるが、実は二代目の子とも言われた。三歳で初代松本幸四郎の養子となり、二十四歳までは女方を勤める。宝暦四年(1754)、十二年間空白だった名跡を切望して二代目の養子となり、四十四歳で襲名。明快な荒事には不向きな体と気質を抱え、景清物や実悪に活路を見出した。

受け継いだもの

  • 十二年間、空白だった名跡

    成田屋公式は、宝暦四年(1754)十一月、十二年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となって四代目團十郎を襲名したと記す(四十四歳)。名跡は血筋によってではなく、本人の希望と養子縁組によって継がれている。

  • 出自をめぐる二つの伝え

    成田屋公式は、江戸堺町の大茶屋・和泉屋勘十郎の次男であるが、実は二代目團十郎の子とも言われていたと記す。『團十郎事典』も「二代目團十郎の実子という説もある」としたうえで、一応松本家から市川へ養子となったと書く。いずれも断定を避けた書き方であり、ここでも断定していない。

  • 松本家の芸と、女方からの出発

    成田屋公式は、三歳の時に初代松本幸四郎の養子となり、九歳で松本七蔵と名のって初舞台、二十四歳までは女方として舞台に立っていたと記す。享保の末から立役に転じ、享保二十年(1735)十一月に二代目松本幸四郎を襲名した(二十五歳)。

  • 受け継ぎきれなかった荒事

    成田屋公式は、体つきは長身で手足が長く、顔は面長でふくらみに欠け、二重の瞼で三角の険しい目つきは実悪の役者にふさわしいとし、こうした身体的特徴を備えた四代目は初代・二代目が作り上げた「市川團十郎」のイメージとは明らかに異質で、明快で楽天的な荒事の性格には不向きだったと記す。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 景清物という活路

    成田屋公式の『團十郎事典』は、自己の芸風に悩んだ四代目が実事・敵役に活路を見出し、とりわけ景清物を得意としたと記す。獄中で妻子と対面する、牢を破るといった趣向で、それまでの単純な荒事とは一味違った効果を工夫したのだろうとし、顔のつくりも筋隈に墨隈の髭をつけるなど実悪の心が加わったと説明する。

  • 十八番となる二演目の初演

    成田屋公式の歌舞伎十八番のページは、『解脱』を宝暦十年(1760)三月・市村座、『鎌髭』を安永三年(1774)四月・中村座で、いずれも四代目が初演したと記す。同ページは、十八番に含まれた狂言はいずれも初代・二代目・四代目によって初演されたものの中から選ばれているとする。

  • 「修行講」という演技の研究会

    成田屋公式は、五代目團十郎、四代目幸四郎、初代中村仲蔵らの門弟を集め「修行講」と呼ぶ演技の研究会を開いたと記す。『團十郎事典』は、深川木場の自宅で演技・型の研究をした集まりであり、自分で演じなくても弟子達へ示唆することで助力した点も評価されると説明する。

  • 女方から立役への転身

    二十四歳までは女方として舞台に立ち、享保の末から立役に転じたと成田屋公式は記す。荒事の家に入る前に女方の芸を通っていることは、この代の演技の幅を考えるうえで見落とせない。

代表的な芸・役・演目

  • 『解脱』(『曾我万年柱』)

    成田屋公式は初演を宝暦十年(1760)三月、市村座とする。悪七兵衛景清の亡魂が娘の姿を借りて現れ、恨みと迷いの振りののちに得脱して景清の姿になって消えるという筋だったらしいと記す。

  • 『鎌髭』(『御誂染曾我雛型』)

    成田屋公式は初演を安永三年(1774)四月、中村座とする。鍛冶屋の四郎兵衛じつは三保谷四郎が、修行者に化けた景清の首を髭剃りに事よせて鎌で切ろうとするが、景清は不死身のために切れないという筋。五代目に名跡を譲ったのちの初演にあたる。

  • 『景清』ほか景清物

    『景清』そのものは享保十七年(1732)に二代目が中村座で初演した演目だが、成田屋公式の『團十郎事典』は、とりわけ景清物を得意としたのは四代目であり、後にこの役も市川家の重要なものとして扱われるようになったと記す。

  • 『菅原伝授手習鑑』松王丸

    成田屋公式の『團十郎事典』は、安永五年(1776)、得意芸である『菅原伝授手習鑑』の松王丸を一世一代で演じた千穐楽の日に、髪をおろして随念と名を改め引退し、家人をびっくりさせたと記す。

その時代の歌舞伎

十八世紀半ば、人形浄瑠璃は全盛期を迎え、その人気作が次々と歌舞伎へ移された。日本芸術文化振興会は、なかでも『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』が再演を繰り返し、義太夫狂言の三名作と呼ばれるほどになったと記す。踊りの面では、長唄を伴奏とする「所作事」が発展し、宝暦三年(1753)には初代中村富十郎が『京鹿子娘道成寺』を初演している。江戸の芝居の一年は十一月の顔見世に始まり、そこで繰り返された「しばらく」の場面が次第に洗練されて、のちの『暫』となる一定の演出が固まっていった。

同じ頃、世の中では

  • 芸と演目

    義太夫狂言の三名作が歌舞伎へ

    日本芸術文化振興会は、人形浄瑠璃が全盛期を迎えた十八世紀半ばには人気作が次々と歌舞伎へ移され、なかでも『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』は再演を繰り返し、義太夫狂言の三名作と呼ばれるほどになったと記す。これらは現在の歌舞伎の演目でも大きな割合を占めている。

  • 1753芸と演目

    『京鹿子娘道成寺』の初演

    日本芸術文化振興会は、元禄年間から上演されてきた「道成寺物」を集大成したのが、宝暦三年(1753)に初代中村富十郎が初演した『京鹿子娘道成寺』であり、一時間近くを一人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲だと説明する。四代目の襲名の前年にあたる。

  • 芸と演目

    顔見世のなかで『暫』の演出が固まっていく

    日本芸術文化振興会は、顔見世で上演されるさまざまな作品に、「しばらく」の声とともに登場する正義感あふれる人物が悪人に殺されかけている人々を救う場面を組み込む慣習があり、何度も演じられたこの場面が次第に洗練されて一定の演出が完成したと説明する。独立した演目『暫』として上演されるのは明治以降である。

時代との接点

  • 1735-11芸と演目

    團十郎の名が動いた興行で、幸四郎を継ぐ

    成田屋公式は、享保二十年(1735)十一月、二代目が海老蔵、升五郎が三代目團十郎を襲名した興行で、松本七蔵も二代目松本幸四郎を襲名したと記す(二十五歳)。女方から立役へ転じた時期と重なっており、のちに團十郎の名跡へ進む道はこの興行から始まっている。

  • 1754-11芸と演目

    空白の名跡を、養子縁組で継ぐ

    成田屋公式は、宝暦四年(1754)十一月、十二年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となって四代目團十郎を襲名したと記す(四十四歳)。二代目の側から見れば、三代目を失ったのち六十七歳で四十四歳の養子を迎えたことになる。

  • 1770芸と演目

    実子へ譲り、旧名へ戻る

    成田屋公式は、明和七年(1770)、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を襲名させ、自分はいったん旧名の幸四郎に戻ったと記す(六十歳)。名跡を譲ったあとも舞台に立ち続け、安永三年(1774)には『鎌髭』を初演している。

  • 1776日本社会

    剃髪引退と「木場の親玉」

    成田屋公式は、安永五年(1776)、市村座公演の千龝楽ににわかに剃髪して引退し、随念と名のって深川木場の自宅に引きこもり、侠客や俳諧仲間と交遊したと記す(六十六歳)。『團十郎事典』は、世話好きで後年深川木場へ引籠ったことから、皆に親しみを込めて「木場の親玉」と呼ばれたと伝える。

この代から、次の代へ

荒事に不向きな体と気質を抱えたまま、実悪や景清物に自分の芸を築いた。成田屋公式は、市川團十郎の名をはずかしめない名優になっただけでなく、息子の五代目へと「市川水の流れ」の継承を果たしたと記す。引退後は深川木場で修行講を開き、演じることをやめてなお後進に型を伝えた。

資料によって異なる点

次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。

四代目の出自

  1. 江戸堺町の大茶屋・和泉屋勘十郎の次男であるとされる。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「家系図 四代 市川團十郎」

  2. 実は二代目團十郎の実子であるという説もある、とも伝わる。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「團十郎事典 か行(景清物・木場の親玉)」

当サイトの扱い

どちらの出典も「〜とも言われていた」「〜という説もある」と伝聞の形で書いており、事実として確かめられてはいません。本文でも両説を併記し、血縁を断定していません。宝暦四年(1754)に養子として名跡を継いだことは、いずれの記述でも共通しています。

安永五年(1776)の引退興行を、何によって記すか

  1. 市村座公演の千龝楽をもって引退したとし、劇場の側から記す。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「家系図 四代 市川團十郎」

  2. 得意芸の『菅原伝授手習鑑』の松王丸を一世一代で演じた千穐楽の日に引退したとし、演目の側から記す。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「團十郎事典 か行(景清物・木場の親玉)」

当サイトの扱い

年は一致しますが、劇場と演目が同じ一日を指すのかどうかは出典に明示されていません。本文では両者を分けて記し、ひとつの興行として結びつけていません。

現在にも残る影響

  • 景清物

    四代目が得意とした役どころは、後に市川家の重要なものとして扱われるようになったと成田屋公式は記す。『景清』は歌舞伎十八番のひとつである。

  • 「実悪」という役どころ

    敵役のなかでも悪に徹する役柄。四代目が活路を見出したこの方向は、のちの世代にも受け継がれていく。

  • 型を研究するという場

    深川木場で開いた修行講は、演技と型を俳優どうしで研究する集まりだった。十二代目團十郎は学生時代、「修行講とその五代目への影響」を卒業論文の主題に選んでいる。