歌舞伎D-13

350 YEARS · THIRTEEN GENERATIONS

十三代の團十郎、十三の時代。

元禄の江戸から、世界とつながる令和へ。歴代の市川團十郎は、何を受け継ぎ、何を変え、その時代とどう向き合ってきたのか。

歴代の市川團十郎とは、江戸時代の元禄期に荒事を創始したとされる初代から、2022年に襲名した十三代目まで続く、歌舞伎の名跡です。團十郎という名は血縁だけでなく、養子や門弟を含む芸・型・精神の継承によって受け渡されてきました。

01SIX AGES

六つの時代

01

荒事の誕生と江戸歌舞伎

元禄の江戸に大都市が生まれ、豪快で活気のあるものが好まれた。初代が荒々しい武者の演技を正義の主人公の型へまとめ、市川家の芸が始まる。

02

家の芸を形にする

享楽的な文化・文政の江戸で芸域を広げ、やがて家に伝わる演目から十八を選ぶ。天保の改革は、その体系化のすぐ後に訪れた。

03

幕末から近代へ

幕府が倒れ、演劇を高尚なものにしようとする声が高まる。活歴と演劇改良運動、そして天覧劇を経て、歌舞伎と俳優の位置づけが変わっていく。

04

空白、戦争、復興

團十郎の名跡が長く途絶えた時期をはさみ、戦災で劇場と人材が失われる。焼け跡からの再建と、1962年の十一代目襲名までを扱う予定。

05

大衆メディアと世界へ

テレビと映画が歌舞伎俳優を茶の間へ届け、海外公演が重ねられていく。国立劇場の開場から、ユネスコ無形文化遺産への記載までを扱う予定。

06

十三代目と、これから

2022年11月、歌舞伎座で十三代目が襲名し、同じ舞台で長男が八代目市川新之助を名のった。配信と海外公演が、届け方そのものを広げている。

02TWO TIMELINES

二つの年表で読む

上に「同じ頃、世の中では」、下に「時代との接点」。社会の出来事と團十郎の活動は、出典で結びつきが確認できる場合にのみ「接点」として示しています。

初代から十三代目まで、全13代を収録しています。各代の記述は成田屋公式・日本芸術文化振興会・歌舞伎俳優名鑑などの公開資料で確認したもので、資料の少ない代や記述に幅のある事項は「とされる」と記し、監修を経て更新していきます。

01初代

元禄

荒事を生み、江戸に「團十郎」を立てる

生没年:
1660–1704-02-19
團十郎を名乗った期間:
1673–1704-02-19

元禄期の江戸で、人形芝居の金平浄瑠璃などから着想を得て、荒々しい武者の演技を「悪を討つ正義の主人公」の型へまとめ上げたとされる。神が現れて荒ぶる演出を伴うこの荒事が、以後の市川家の家の芸となった。舞台に出演中に刺され、四十五歳で没している。

同じ頃、世の中では

  • 1688–1704日本社会

    元禄の都市と町人文化

    江戸や上方で大都市が形成され、文芸・美術・工芸・音楽に新しい波が起こった。歌舞伎もこの流れのなかで大きく発展したと日本芸術文化振興会は記す。

  • 1688–1704芸と演目

    上方では和事と女方の芸が定まる

    荒事と同じ元禄年間、京・大坂では初代坂田藤十郎が写実的な演技で和事の人気を得、初代芳沢あやめが女方の芸を確立したとされる。

  • 1688–1704芸と演目

    人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ

    近松門左衛門らによって人形浄瑠璃が大きく発展し、構成力に優れたその作品を歌舞伎でも演じることが始まった。時代物・世話物という呼び分けもこの頃に生まれている。

時代との接点

  • 1685芸と演目

    流行の人形芝居から荒事へ

    成田屋公式は、荒事の創始とされる『金平六条通』について、当時江戸で人気を集めていた金平浄瑠璃からヒントを得たと伝えられると記す。

  • 日本社会

    成田不動への祈願と屋号「成田屋」

    成田屋公式は、初代が成田不動に願をかけて二代目をもうけたというほど両者の因縁は浅くないとし、屋号の成田屋もこれに由来すると記す。歴代團十郎の襲名では今も成田山新勝寺でお練りが行われる。

  • 1693日本社会

    上方への進出と俳諧入門

    元禄六年(1693)の暮れ、両親妻子を伴って京へ上るが、当時の京都人の気風に合わず評判はかんばしくなかったと成田屋公式は記す。在京は約一年。この上京を機に椎本才麿へ入門し、俳名を才牛とした。

02二代目

元禄末から享保

荒事に和事のやわらかみを重ね、家の芸を確立する

生没年:
1688–1758-09-24
團十郎を名乗った期間:
1704-07–1735-11

初代の急死を受け、元禄十七年(1704)に十七歳で襲名した。江戸和事の名人・生島新五郎の後ろ盾と指導を得て、荒事に和事や実事のやわらかみを重ねる新しい表現を身につける。『助六』『矢の根』『外郎売』などを初演し、隈取の様式性も整えて、のちに歌舞伎十八番と呼ばれる家の芸の骨格を築いた。

同じ頃、世の中では

  • 芸と演目

    人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ

    日本芸術文化振興会は、近松門左衛門が『曽根崎心中』など同時代の町人の情愛を描いた作品で人気を集め、『国性爺合戦』は歌舞伎へも移されて評判となり、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じる流れの先駆けとなったと記す。時代物・世話物という呼び分けもこの頃に生まれている。

  • 1714日本社会

    江島生島事件と、江戸三座の成立

    成田屋公式の『團十郎事典』は、江戸時代に官許の大劇場は中村座・山村座・市村座・森田座の四座と決められていたが、正徳四年に江島生島事件で山村座が取りつぶされ、以後は三座となったと記す。支障があった際には都座・桐座・河原崎座が控櫓として代行した。

  • 日本社会

    千両が動く三ヶ所のひとつとしての芝居

    成田屋公式の『團十郎事典』は、江戸で日に千両箱の値の金が落ちる三ヶ所として、朝は日本橋魚河岸、昼は江戸三座の芝居、夜は吉原遊郭を挙げる。芝居が都市の経済のなかで占めた位置を示す言い回しである。

時代との接点

  • 1714日本社会

    江島生島事件への連座

    成田屋公式は、正徳四年(1714)に江島生島事件へ巻き込まれたが軽い処分ですみ、恩人の生島新五郎は遠島となったと記す(二十七歳)。『團十郎事典』は、連座しかけた原因の一つとして、近衛家の替紋「杏葉牡丹」の付いた御下賜品を江島から拝領して問題になったこと、時の奉行の頓智により市川家で使用する替紋と言い逃れて罪をまぬがれたことを伝える。前年に『助六』を初演した山村座は、この事件で取りつぶされている。

  • 1721日本社会

    千両役者となる

    成田屋公式は、享保六年(1721)に千両の給金を与えられる「千両役者」となったと記す(三十四歳)。芝居が都市の経済の一角を占めた時代に、俳優個人の値がその言葉で示されたことになる。

  • 芸と演目

    上方の和事が江戸の荒事に流れ込む

    成田屋公式は、後ろ盾となった生島新五郎が初代中村七三郎の芸を受け継いだ江戸和事の名人であり、その指導によって二代目が幅広い芸域を持ちえたと記す。日本芸術文化振興会が江戸の荒事と上方の和事を対にして説明する時代に、二代目はその両方を一身に重ねたことになる。

03三代目

享保から寛保

十五歳で継ぎ、二十二歳で逝く。名跡に空白が生まれる

生没年:
1721–1742-02-27
團十郎を名乗った期間:
1735-11–1742-02-27

初代の高弟・三升屋助十郎の子に生まれ、五歳で二代目の養子となった。享保二十年(1735)、市村座の顔見世で十五歳の襲名。同じ興行で養父は二代目海老蔵となる。寛保二年(1742)、大坂から病を得て戻り二十二歳で没し、以後十年余り團十郎の名跡は空白となった。

同じ頃、世の中では

  • 芸と演目

    顔見世という年中行事

    日本芸術文化振興会は、江戸歌舞伎では俳優が芝居小屋と一年ごとに契約を結び、その契約の始まる十一月の興行が「顔見世」と呼ばれて、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事だったと説明する。『暫』もこの顔見世の慣習のなかから生まれた演目である。

  • 芸と演目

    人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ移されていく

    日本芸術文化振興会は、近松門左衛門の作品の多くが歌舞伎へ移されて重要な演目となり、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じる流れの先駆けとなったと記す。人形浄瑠璃が全盛期を迎える十八世紀半ばには、人気作が次々と歌舞伎へ移されることになる。

  • 芸と演目

    「所作事」が女方の芸として形をとる

    日本芸術文化振興会は、歌舞伎が発祥から備えていた踊りとしての側面が音楽の流行とともに進展し、「所作事」「振事」と呼ばれる舞踊劇が、長唄を伴奏として、はじめは女方による芸として形成されたと記す。

時代との接点

  • 1735-11芸と演目

    ひとつの顔見世で、三つの名が動く

    成田屋公式は、享保二十年(1735)十一月の興行で、二代目が海老蔵に、升五郎が三代目團十郎に、そして松本七蔵が二代目松本幸四郎になったと記す。この七蔵が、のちに十二年の空白を経て四代目團十郎となる人物である。

  • 1741芸と演目

    養父とともに上方へ

    寛保元年(1741)、養父の海老蔵とともに大坂へ上ったが、すぐに発病して江戸へ戻ったと成田屋公式は記す。海老蔵は大坂で『毛抜』の粂寺弾正を初演し、実事の芸が上方でも認められた一方、その滞在中に三代目の訃報を聞くことになる。上方と江戸を俳優が行き来した時代の、ひとつの結末にあたる。

04四代目

宝暦から安永

空白の名跡を継ぎ、荒事ではなく実悪に活路を見出す

生没年:
1711–1778-02-25
團十郎を名乗った期間:
1754-11–1770

江戸堺町の茶屋の次男とされるが、実は二代目の子とも言われた。三歳で初代松本幸四郎の養子となり、二十四歳までは女方を勤める。宝暦四年(1754)、十二年間空白だった名跡を切望して二代目の養子となり、四十四歳で襲名。明快な荒事には不向きな体と気質を抱え、景清物や実悪に活路を見出した。

同じ頃、世の中では

  • 芸と演目

    義太夫狂言の三名作が歌舞伎へ

    日本芸術文化振興会は、人形浄瑠璃が全盛期を迎えた十八世紀半ばには人気作が次々と歌舞伎へ移され、なかでも『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』は再演を繰り返し、義太夫狂言の三名作と呼ばれるほどになったと記す。これらは現在の歌舞伎の演目でも大きな割合を占めている。

  • 1753芸と演目

    『京鹿子娘道成寺』の初演

    日本芸術文化振興会は、元禄年間から上演されてきた「道成寺物」を集大成したのが、宝暦三年(1753)に初代中村富十郎が初演した『京鹿子娘道成寺』であり、一時間近くを一人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲だと説明する。四代目の襲名の前年にあたる。

  • 芸と演目

    顔見世のなかで『暫』の演出が固まっていく

    日本芸術文化振興会は、顔見世で上演されるさまざまな作品に、「しばらく」の声とともに登場する正義感あふれる人物が悪人に殺されかけている人々を救う場面を組み込む慣習があり、何度も演じられたこの場面が次第に洗練されて一定の演出が完成したと説明する。独立した演目『暫』として上演されるのは明治以降である。

時代との接点

  • 1735-11芸と演目

    團十郎の名が動いた興行で、幸四郎を継ぐ

    成田屋公式は、享保二十年(1735)十一月、二代目が海老蔵、升五郎が三代目團十郎を襲名した興行で、松本七蔵も二代目松本幸四郎を襲名したと記す(二十五歳)。女方から立役へ転じた時期と重なっており、のちに團十郎の名跡へ進む道はこの興行から始まっている。

  • 1754-11芸と演目

    空白の名跡を、養子縁組で継ぐ

    成田屋公式は、宝暦四年(1754)十一月、十二年間空白だった團十郎の名跡を切望し、海老蔵(二代目團十郎)の養子となって四代目團十郎を襲名したと記す(四十四歳)。二代目の側から見れば、三代目を失ったのち六十七歳で四十四歳の養子を迎えたことになる。

  • 1770芸と演目

    実子へ譲り、旧名へ戻る

    成田屋公式は、明和七年(1770)、実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を襲名させ、自分はいったん旧名の幸四郎に戻ったと記す(六十歳)。名跡を譲ったあとも舞台に立ち続け、安永三年(1774)には『鎌髭』を初演している。

  • 1776日本社会

    剃髪引退と「木場の親玉」

    成田屋公式は、安永五年(1776)、市村座公演の千龝楽ににわかに剃髪して引退し、随念と名のって深川木場の自宅に引きこもり、侠客や俳諧仲間と交遊したと記す(六十六歳)。『團十郎事典』は、世話好きで後年深川木場へ引籠ったことから、皆に親しみを込めて「木場の親玉」と呼ばれたと伝える。

05五代目

安永・天明から寛政へ

「かねる役者」として、團十郎の芸域をひろげる

生没年:
1741–1806-10-30
團十郎を名乗った期間:
1770-11–1791-11

四代目の子。父が四代目團十郎を襲名したため三代目松本幸四郎を継ぎ、明和七年に三十歳で五代目を襲名した。荒事に加えて実事・女方・道化・侠客まで芸域を広げ「かねる役者」と呼ばれる。俳名「白猿」は、父祖のような名人には及ばないという謙遜を込めたものと成田屋公式は伝える。

同じ頃、世の中では

  • 1772–1801芸と演目

    江戸歌舞伎の開花期

    成田屋公式は、安永(1772〜81)・天明(1781〜89)から寛政(1789〜1801)にかけての時期について、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であったと記す。

  • 芸と演目

    義太夫狂言が演目の大きな部分に

    日本芸術文化振興会は、人形浄瑠璃が全盛期を迎えた十八世紀半ばに人気作が次々と歌舞伎へ移されたと記す。『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』は再演を繰り返し、義太夫狂言の三名作と呼ばれるほどになった。

  • 芸と演目

    所作事の展開と、浄瑠璃の伴奏

    日本芸術文化振興会は、常磐津節や富本節などの浄瑠璃が歌舞伎の伴奏に取り入れられ、もともと物語を語る芸能であるために劇的な要素の強い所作事が生まれたと記す。所作事は女方だけでなく立役によっても演じられるようになり、十八世紀後半には『積恋雪関扉』が初演された。

時代との接点

  • 日本社会

    「江戸三幅対」に数えられる

    成田屋公式は、約二百年前に「江戸三幅対」という言葉が街々に広まったとし、当時の人気スターとして五代目團十郎・力士の谷風・吉原の太夫花扇の三人を挙げる。芝居・相撲・遊里という江戸の盛り場を代表する顔として並び称された。

  • メディア

    戯作者・烏亭焉馬との交わり

    成田屋公式は、『歌舞妓年代記』の編者として知られる烏亭焉馬と義兄弟の契りを結ぶ仲だったと記す。事典は、焉馬の本所相生町の住居が屋根から家具にいたるまで三升の紋をつけるほどの熱狂ぶりで、音を似せて談州楼と自ら名乗り、二人は合作で戯作もものしたと伝える。

  • 1791-11芸と演目

    六代目への譲名と、鰕蔵への改名

    寛政三年十一月、息子の海老蔵に六代目團十郎を襲名させ、自分は鰕蔵と改名した(五十一歳)。成田屋公式は、鰕は天鰕の意味で「祖父や父親の海老には及びません」という遜った気持ちを表す文字であったとし、口上では「親達は名人上手で江戸の飾り海老ですが、自分はザコで鰕蔵を」と述べたと伝える。

  • 1796-11–1806-10-30日本社会

    反古庵での隠居と、句会半ばの死

    成田屋公式は、寛政八年十一月の引退後、本所牛島の反古庵に隠居して成田屋七左衛門と称し、世俗を超えた風雅の生活に入って多くの文人と交流したと記す。文化三年十月三十日、前日より催されていた句会半ばに没した(六十六歳)。

06六代目

寛政

折れし三升の菖蒲太刀 ── 二十二歳で絶えた代

生没年:
1778–1799-05-13
團十郎を名乗った期間:
1791-11–1799-05-13

五代目の子として生まれ、門弟や親類の家を経てあらためて五代目の養子となった。寛政三年十一月、十四歳で六代目を襲名する。若く花のある美男役者だったと伝わる。寛政十一年三月に家の芸『助六』を初めて勤めて大当たりをとったが、翌月に休演し、句を残して二十二歳で没した。

同じ頃、世の中では

  • 1789–1801芸と演目

    江戸歌舞伎の開花期の終盤

    成田屋公式は、安永・天明から寛政(1789〜1801)にかけての時期を、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であったと記す。六代目が團十郎を名のった八年間は、この時期の終盤にあたる。

  • メディア

    役者絵の隆盛と写楽

    成田屋公式は、写楽が描いた「竹村定之進」のモデルは、息子に六代目を継がせて鰕蔵と名のった後の五代目だとする。六代目が團十郎であった時期は、役者絵が江戸の版元にとって大きな商品であった頃にあたる。

  • 芸と演目

    所作事が立役にもひろがる

    日本芸術文化振興会は、常磐津節や富本節などの浄瑠璃が伴奏に取り入れられ、劇的な要素の強い所作事が生まれたこと、所作事が女方だけでなく立役によっても演じられるようになったことを記す。

時代との接点

  • 1791-11芸と演目

    市村座顔見世での襲名

    寛政三年十一月、市村座の顔見世で六代目團十郎を襲名した(十四歳)。同じ折に父の五代目は鰕蔵と改名しており、成田屋公式はその口上が大評判になって、それを目当ての客が押し寄せたと伝える。

  • 1796芸と演目

    五代目の引退と、若い當主の責任

    成田屋公式は、寛政八年に五代目が引退したため、十九歳の青年團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かったと記す。

  • 1799-03–1799-05-13芸と演目

    『助六』の大当たりから、二か月後の死へ

    成田屋公式は、寛政十一年三月に初めて家の芸の助六を演じて大当たりをとったが、翌月風邪のために休演し、「こはいかに折れし三升の菖蒲太刀」という句を残して、そのまま帰らぬ人となったと記す。同年五月十三日没(二十二歳)。

07七代目

文化・文政から天保へ

家の芸を、十八の演目として形にする

生没年:
1791–1859-03-23
團十郎を名乗った期間:
1800-11–1832-03

六代目の急逝により、わずか十歳で團十郎を継いだ。四代目鶴屋南北の狂言で色悪という役どころを確立する。天保三年、息子に名跡を譲る際、市川家に伝わる演目から十八を選んで刷り物を配った。のちに『勧進帳』初演を機に歌舞伎十八番の呼び名が定着したとされる。

同じ頃、世の中では

  • 1804–1830日本社会

    享楽的な江戸と、新しい文芸・芸能

    江戸へさらに人口が集中し、幕府による統制も弱まった。新しい文芸や美術、工芸、音楽が次々と生まれ、手軽に楽しめる講談や落語なども盛んになったと日本芸術文化振興会は記す。

  • 1804–1829芸と演目

    四代目鶴屋南北の活躍

    社会の底辺で暮らす人々を赤裸々に描く「生世話物」を確立し、ケレンを多用した怪談物も創造した。複数の物語を混ぜ合わせる「綯い交ぜ」などの手法で、自由な作品を生み出した。

  • 1804–1830メディア

    印刷技術の進歩と、出版と結んだ興行

    多色刷りなど印刷技術の進歩とともに、さまざまな出版物と連携した興行が多くなったと日本芸術文化振興会は記す。役者絵や番付が芝居の外へ広がっていく時期にあたる。

時代との接点

  • 1842-04-06–1842-06-22日本社会

    天保の改革による処罰と江戸追放

    奢侈を禁じる天保の改革により、天保十三年四月六日に南町奉行所へ召喚されて手鎖のうえ家主預かりとなり、六月二十二日には江戸十里四方追放の刑に処せられたと成田屋公式は記す。日本芸術文化振興会も、五代目市川海老蔵が贅沢や奢りを理由に処罰され江戸から追放されたと記している。

  • 1842-06-25日本社会

    成田山新勝寺への寓居

    追放を受けた七代目は成田屋七左衛門と改名し、六月二十五日に江戸を発って成田山新勝寺延命院に寓居したと成田屋公式は記す。家の屋号の由来となった寺が、そのまま身を寄せる場所となった。

  • 1842–1849芸と演目

    上方での旅興行

    その後は大坂に住み、京・大津・桑名などの芝居にも出た。その際は市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田屋七左衛門などの名を使ったと成田屋公式は記す。

  • 1849-12-26–1850-02-29日本社会

    特赦と江戸への帰還

    嘉永二年十二月二十六日の特赦により追放赦免の沙汰が出て、翌三年正月十六日に江戸へすぐ帰るようにという書状が届き、二月二十九日に江戸へ着いたと成田屋公式は記す。

08八代目

天保から嘉永へ

猿若町の賑わいを呼び戻した、美貌の人気役者

生没年:
1823–1854-08-06
團十郎を名乗った期間:
1832-03–1854-08-06

天保三年三月、十歳で八代目を襲名。面長の美男で、粋で上品な色気と甲走った高い口跡をそなえ、代々とは異なる團十郎像を築いた。天保の改革で江戸三座が猿若町へ移されたのち、賑わいを取り戻す原動力はその人気だったと成田屋公式は記す。嘉永七年八月、大坂で自ら命を絶った(三十二歳)。

同じ頃、世の中では

  • 1841–1843日本社会

    天保の改革と、娯楽の取り締まり

    文化デジタルライブラリーは、天保の改革(天保十二年〜十四年)が幕藩体制の立て直しをめざすもので、その一環として贅沢の徹底的な取り締まりが行われ、高価な装身具や料理、小説や錦絵なども贅沢品として制限されたと記す。芝居や寄席などの庶民の娯楽も大きく制限された。

  • 1841–1843日本社会

    江戸三座の猿若町移転

    文化デジタルライブラリーは、歌舞伎を取りつぶそうとする強硬派に穏健派が反対し、火災をきっかけに、それまで江戸の中心地にあった芝居小屋を当時は郊外だった浅草に移転させることで決着がついたと記す。天保十二年から十四年の間に江戸三座の引っ越しは完了し、「猿若町」と名づけられた新しい芝居町が生まれた。

  • 芸と演目

    顔見世の衰退と、寄席・見世物の活況

    文化デジタルライブラリーは、この時期の江戸歌舞伎について、かつて「江戸の花」と讃えられた十一月の顔見世興行が衰退し、役者の入れ替わり時期が一月に変わって興行の賑やかさもなくなっていったと記す。一方で寄席や見世物が手軽な娯楽として一層活発になり、寄席芸の演目が歌舞伎作品の題材になるなど、さまざまな娯楽が交流するようになった。

時代との接点

  • 1842–1849日本社会

    父の追放と、成田不動への日参

    成田屋公式は、親孝行でも知られ、父の七代目が追放された時、毎朝精進茶断ちをして蔵前の成田不動の旅所に日参し、父の無事と赦免を祈ったと記す。これを理由に町奉行から表彰され、銭十貫文を貰ったという。歌舞伎を締めつけた天保の改革と、家の信仰とが交わる出来事にあたる。

  • 1842芸と演目

    猿若町の客足を呼び戻す

    成田屋公式は、江戸三座が強制的に浅草の猿若町へ移転させられ、都心を離れた所へ移されて当初は客足も減ってしまったが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻し、その原動力には八代目の人気が大きかったと記す。

  • メディア

    人気そのものが売り買いされる

    成田屋公式は、当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水で白粉を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたという、と伝える。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして御殿女中たちが錦の守り袋に入れ肌守りにしていたとの伝説もあった、とも記す。いずれも成田屋公式が噂・伝説として書いているものである。

  • 1854-07-28–1854-08-06日本社会

    大坂への旅と、その死

    嘉永七年六月、大坂にいた父の海老蔵を訪ねようと江戸を発ち、途中の名古屋で興行中の父と合流して舞台に出演した。七月二十八日には父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをしている。大坂での初日を迎えた八月六日の朝、島の内御前町の旅館で自ら命を絶った(三十二歳)。成田屋公式は原因は不明とする。

09九代目

幕末から明治

「劇聖」と呼ばれ、歌舞伎を近代の舞台芸術へ

生没年:
1838–1903-09-13
團十郎を名乗った期間:
1874-07–1903-09-13

七代目の五男に生まれ、生後まもなく河原崎座の養子となった。三十七歳で市川家に戻り九代目を襲名する。史実の考証を重んじる活歴物を掲げて演劇改良運動の先頭に立ち、明治二十年の天覧劇を経て、俳優の社会的地位を大きく引き上げたとされる。

同じ頃、世の中では

  • 1886日本社会

    演劇改良会の結成

    伊藤博文の女婿であった末松謙澄が中心となり、演劇の旧弊打破を主眼として明治十九年に設立された。渋沢栄一なども加わり、花道やチョボの廃止、女優の登用といった激しい議論もあったが、二、三年で立ち消えになったと成田屋公式は記す。

  • 1893芸と演目

    河竹黙阿弥の死

    江戸から明治までをまたいで活躍した作者が没した。新しい時代の要請に応じた作品にも取り組みつつ、失われた江戸の面影を映す世話物を書き続けた稀有な作家だったと日本芸術文化振興会は記す。

  • 芸と演目

    「新歌舞伎」の胎動

    演劇改良運動の影響もあり、坪内逍遥のような文学者が歌舞伎に関わりやすくなった。明治後半から昭和初期にかけて、歌舞伎の外部の作者が書いた作品が上演されるようになっていく。

時代との接点

  • 1868-09日本社会

    養父の横死と、幕末から明治への転換

    明治元年九月、養父の河原崎権之助が強盗に殺害されるという事件に遭う。養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名し、市村座の座頭となったと成田屋公式は記す。

  • 1878-06芸と演目

    新富座と演劇改良運動

    移転や焼失を経て近代的な大劇場として再建された新富座で、従来の演技・演出を大胆に変え、写実主義的な活歴物を積極的に上演して演劇改良運動に力を注ぎ始めた。しかし長く江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買ったと成田屋公式は記す。

  • 1887-04日本社会

    天覧劇

    日本芸術文化振興会は、明治二十年四月に外務大臣井上馨邸において明治天皇による観劇が実現したと記す。成田屋公式は、麻布の井上邸の仮設舞台に明治天皇および皇后・皇太后が臨席し、九代目が『勧進帳』ほかを勤めたこと、これが俳優の社会的地位の向上に大きく寄与したこと、我が国で電気照明を初めて使った舞台であったことを伝える。

  • 1894芸と演目

    古典歌舞伎への回帰

    活歴が支持を得られないなか、明治二十七年ごろからは再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになったと成田屋公式は記す。日本芸術文化振興会も、十九世紀末頃には江戸時代から続く演目をより洗練された形で演じ、後世の規範となる舞台をみせたとする。

10十代目追贈

明治から昭和へ

團十郎のいない時代に、宗家を守る

生没年:
1882–1956-02-01
團十郎を名乗った期間:

日本橋の豪商の次男に生まれ、慶応義塾を出て九代目の長女実子の婿となった。九代目没後の明治四十三年に役者を志し、大正六年に五代目市川三升と改名。團十郎不在の時代に宗家を守り、埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演した。生前に團十郎を名乗ることはなく、没後に十代目の名を贈られている。

同じ頃、世の中では

  • 1910–1935芸と演目

    「新歌舞伎」の流行と復活上演

    日本芸術文化振興会は、明治後半から昭和初期にかけて歌舞伎の外部の作者が書いた作品が上演されるようになり、二代目市川左團次がこれを盛んに上演したと記す。左團次は歌舞伎十八番の『鳴神』など長く演じられなかった演目も復活上演させている。

  • 1910–1940芸と演目

    東京歌舞伎の黄金時代

    日本芸術文化振興会は、五代目中村歌右衛門・六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎・十五代目市村羽左衛門・六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門などの優れた俳優が輩出し、東京歌舞伎の黄金時代と呼ばれたと記す。上方では初代中村鴈治郎が大阪の顔と呼ばれた。

  • 1945日本社会

    戦争による焼失と、占領下の上演禁止

    日本芸術文化振興会は、第二次世界大戦によって歌舞伎の劇場のほとんどは焼失し、多くの人材も失われたと記す。占領下でようやく再開された歌舞伎も、『仮名手本忠臣蔵』など多くの演目が軍国主義や身分制度を肯定するものとしていったんは上演を禁止された。

  • 1951日本社会

    歌舞伎座の再建

    日本芸術文化振興会は、昭和二十六年(1951)に歌舞伎座が再建され、上演された『源氏物語』が大きな反響をよんだこともあり、歌舞伎は復興し始めたと記す。この五年後にこの代は世を去っている。

時代との接点

  • 1910芸と演目

    初代中村鴈治郎を頼って舞台へ

    成田屋公式は、九代目没後の明治四十三年(1910)に突然役者を志し、上方役者の初代中村鴈治郎を頼って巡業先を訪ねたと記す。日本芸術文化振興会は同じ頃の鴈治郎を、近代的な和事の芸を完成させ大阪の顔と呼ばれた俳優として紹介している。

  • 1917–1956芸と演目

    團十郎空白期間を宗家として埋める

    成田屋公式は、未曾有の團十郎空白期間に宗家としてなすべき役を勤め、埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演したと記す。名跡の不在を、家の芸の上演によって埋めようとした期間にあたる。

  • 1956芸と演目

    没後に贈られた十代目の名

    成田屋公式は、昭和三十一年(1956)二月一日に七十三歳で没し、告別式の当日、後継者の海老蔵(のちの十一代目團十郎)が故人に十代目團十郎の名跡を追贈したと記す。『團十郎事典』はこれを「死後十代目團十郎を諡される」とも書いている。生前の襲名ではない。

11十一代目

昭和・戦中から戦後へ

「海老さま」と呼ばれ、五十九年ぶりに團十郎を戻す

生没年:
1909-01-06–1965-11-10
團十郎を名乗った期間:
1962-04–1965-11-10

七代目松本幸四郎の長男に生まれ、十代目の養子となって九代目市川海老蔵を襲名した。戦後の『助六』や『源氏物語』で人気を集め「海老さま」と呼ばれる。大きすぎる名跡への逡巡を経て、昭和三十七年四月、九代目の没後途絶えていた團十郎を五十九年ぶりに復活させた。襲名から三年半で病没。

同じ頃、世の中では

  • 1964メディア

    白黒テレビが各家庭へ

    総務省の通信白書は、白黒テレビが昭和三十年代において急速に家庭に普及し、三十九年(1964)には世帯普及率が九〇%に達したと記す。国民平均のテレビ視聴時間も昭和三十五年の五十六分から四十年には二時間五十二分へ増えている。

  • 1965-04芸と演目

    伝統歌舞伎保存会の第一次認定

    歌舞伎俳優名鑑は、昭和四十年(1965)四月に伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定が行われたと記す。古典の継承を制度として支える枠組みが整えられていった時期にあたる。

  • 1966日本社会

    国立劇場の開場

    日本芸術文化振興会は、昭和四十一年(1966)に伝統芸能の保存と振興を目的とする国立劇場が開場し、歌舞伎特有の機構を備えた舞台で伝統的な歌舞伎の上演を開始したと記す。この代が没した翌年にあたる。

時代との接点

  • 1941–1945日本社会

    戦時下の慰問興行

    成田屋公式は、昭和十六年(1941)に太平洋戦争が始まり、慰問興行などに従ったと記す。九代目市川海老蔵を襲名した翌年にあたる。

  • 1951-03芸と演目

    再建された歌舞伎座の『源氏物語』

    日本芸術文化振興会は、昭和二十六年(1951)に歌舞伎座が再建され、上演された『源氏物語』が大きな反響をよんだこともあり歌舞伎は復興し始めたと記す。成田屋公式は、その三月に歌舞伎座で舟橋聖一訳『源氏物語』の光君を演じて大好評を得たと記す。復興の象徴となった舞台に立っていた。

  • 1962-04芸と演目

    五十九年ぶりの團十郎と「歌舞伎ブーム」

    成田屋公式は、昭和三十七年(1962)四月に歌舞伎座で十一代目團十郎を襲名し、九代目が没してから五十九年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生したと記す。日本芸術文化振興会は、この襲名披露公演が大変な人気をよび「歌舞伎ブーム」が起こるほどだったと記す。

  • 1965-03芸と演目

    三兄弟が並んだ口上

    成田屋公式の『團十郎事典』は、昭和四十年(1965)三月の歌舞伎座、七代目幸四郎追善興行で、故白鸚・松緑と三人兄弟が素の紋付袴姿で口上に並び評判になったと伝える。訥弁と思われていた十一代目の口上がユーモアあり弁舌爽やかで、両弟を驚かせたという。没する年の舞台である。

12十二代目

昭和から平成へ

家の芸を磨き、劇場を海の外へひらく

生没年:
1946-08-06–2013-02-03
團十郎を名乗った期間:
1985-04–2013-02-03

十一代目の長男。父の急逝により十九歳で後ろ盾を失いながら精進を重ね、昭和四十四年に十代目市川海老蔵、昭和六十年四月から六月の歌舞伎座で十二代目團十郎を襲名した。歌舞伎十八番を家の芸として磨き、パリ・オペラ座をはじめ海外公演を重ねた。平成二十五年二月三日逝去。

同じ頃、世の中では

  • 2005–2008世界

    歌舞伎がユネスコの無形文化遺産に

    日本芸術文化振興会は、二〇〇五年にユネスコにより「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」として宣言され、二〇〇八年に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されたと記す。

  • 2010-04–2013-04日本社会

    歌舞伎座の建て替え

    松竹「歌舞伎座の歴史」は、昭和二十六年に復興開場した第四期の歌舞伎座が平成二十二年(2010)四月の興行をもって建替えのため休館し、平成二十五年(2013)二月に第五期が竣工、三月に開場式、四月に新開場したと記す。この代が没したのは第五期の竣工と同じ月にあたる。

  • 1985–2013芸と演目

    劇場の外へ広がる歌舞伎

    日本芸術文化振興会は、現代劇の作家や演出家との連携、漫画やアニメ作品を原作とする新作の上演、歌舞伎専用の劇場以外での公演などが活発になっていると記す。

時代との接点

  • 1989-09世界

    一九八九年秋のヨーロッパ公演

    成田屋公式は、平成元年(1989)九月にブリュッセル・東ベルリン・ドレスデン・ウイーンを回るヨーロッパ公演を行ったと記す。訪問先と同年十一月以降の欧州情勢との関係を示す出典は確認できていないため、事実の記載にとどめる。

  • 2007-03世界

    パリ・オペラ座での『勧進帳』

    成田屋公式は、平成十九年(2007)三月に『パリ オペラ座 松竹大歌舞伎』(ガルニエ宮)を行ったと記す。歌舞伎俳優名鑑は、パリのオペラ座での『勧進帳』は息子の海老蔵を相手に弁慶と富樫の二役を競演する夢を果たしたものだったと伝える。同年、フランス芸術文化勲章のコマンドゥールを受章している。

  • 2012日本社会

    日本芸術院会員に

    成田屋公式は、平成二十四年(2012)に日本芸術院会員に就任したと記す。平成十一年(1999)には伝統歌舞伎保存会理事、平成十三年(2001)には文化審議会委員に就任しており、古典の継承を制度の側から支える立場にも就いていた。

  • 2012-12-17芸と演目

    最後の舞台

    松竹「歌舞伎美人」は、平成二十四年(2012)十二月十七日、京都四條南座「吉例顔見世興行」での『梶原平三誉石切』の梶原平三、『船弁慶』の武蔵坊弁慶が最後の舞台となったと記す。同社は平成二十五年二月三日午後九時五十九分に都内の病院で逝去したこと、享年六十六であることを伝えている。

13十三代目

令和

劇場の外へ、世界へ。映像とデジタルで開く

生没年:
1977-12-06
團十郎を名乗った期間:
2022-11

七代目市川新之助、十一代目市川海老蔵を経て、二〇二二年十一月、歌舞伎座で十三代目市川團十郎白猿を襲名した。同じ興行で長男が八代目市川新之助を名のる。パリ・オペラ座やカーネギーホールでの公演、口上の生配信など、古典の上演と並行して劇場の外へ活動をひろげている。

同じ頃、世の中では

  • 2023-10日本社会

    初代国立劇場が再整備のため閉場

    日本芸術文化振興会は、国立劇場が開場から六十年近くを経て老朽化が進んだため、令和五年十月末に国立演芸資料館(国立演芸場)と伝統芸能情報館を含めて閉場・閉館したと公表している。以後、主催公演は他劇場で行われている。

  • 2026-05-27日本社会

    大阪松竹座が閉場

    松竹「歌舞伎美人」は、大阪松竹座が二〇二六年五月二十七日より閉場していると案内している。上演の場そのものが移り変わる時期にあたる。

  • 芸と演目

    劇場の外へ広がる歌舞伎

    日本芸術文化振興会は、現代劇の作家や演出家との連携、漫画やアニメ作品を原作とする新作の上演、歌舞伎専用の劇場以外での公演などが活発になっていると記す。

時代との接点

  • 2021-07世界

    東京2020オリンピック開会式への参加

    成田屋公式は、二〇二一年七月の東京2020オリンピック競技大会開会式に参加したと記す。襲名前、市川海老蔵としての出演にあたる。

  • 2022-10-31–2022-11-01芸と演目

    襲名披露記念 歌舞伎座特別公演

    松竹「歌舞伎美人」は、二〇二二年十月三十一日から十一月一日の「十三代目市川團十郎白猿襲名披露記念 歌舞伎座特別公演」をもって、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を、堀越勸玄が八代目市川新之助を名のることになったと報じている。約二年にわたる襲名披露興行がここから始まった。

  • 2022-11-07メディア

    歌舞伎座からの初のリアルタイム生配信

    松竹「歌舞伎美人」は、襲名披露公演の初日にあたる二〇二二年十一月七日、夜の部『襲名披露 口上』を「歌舞伎オンデマンド」で生配信することを、歌舞伎座からのリアルタイム生配信として初の試みと告知した。

  • 2007-03世界

    パリ オペラ座での『勧進帳』

    歌舞伎俳優名鑑は、二〇〇七年の史上初のパリ・オペラ座公演で、故十二代目團十郎と『勧進帳』の弁慶をダブルキャストで勤め、最後の引っ込みのやり方をめぐって父と議論したうえで、客席の通路を花道に見立てて六方を踏んだと伝える。

03FAQ

よくある質問

市川團十郎は何代続いているのですか?

現在の当代は十三代目です。2022年11月、市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿が歌舞伎座で襲名しました。歴代のなかには、生前に襲名せず没後に贈られた代もあります。

荒事を始めたのは誰ですか?

初代市川團十郎が、元禄期に江戸歌舞伎を象徴する演技様式「荒事」を創始したとされます。力強い隈取、見得、六方など、人間を超えた力を表す表現がここから生まれました。

歌舞伎十八番を定めたのは誰ですか?

七代目市川團十郎です。1832(天保3)年、息子に名跡を継がせる際、家に伝わる演目から十八を選んで刷り物として配りました。のちに『勧進帳』初演の折「歌舞伎十八番」と呼び、その名称が定着したとされます。

團十郎の名は血縁だけで受け継がれてきたのですか?

いいえ。歌舞伎の名跡は、実子だけでなく養子・門弟・親族を含む芸の継承によって受け渡されてきました。團十郎の名も、血縁だけでなく芸、型、精神によって受け継がれてきた名前です。