幕末から明治
九代目
市川團十郎
「劇聖」と呼ばれ、歌舞伎を近代の舞台芸術へ
- 生没年
- 1838–1903-09-13
- 團十郎を名乗った期間
- 1874-07–1903-09-13
- 襲名時の年齢
- 37
- 前名・俳名
- 河原崎長十郎/河原崎権十郎/七代目河原崎権之助/河原崎三升/三升・寿海・團洲(俳名)

30秒で分かる、この代の團十郎
七代目の五男に生まれ、生後まもなく河原崎座の養子となった。三十七歳で市川家に戻り九代目を襲名する。史実の考証を重んじる活歴物を掲げて演劇改良運動の先頭に立ち、明治二十年の天覧劇を経て、俳優の社会的地位を大きく引き上げたとされる。
受け継いだもの
生み出した・変えた・復活させたもの
活歴物
従来の時代物を史実に即して組み立て直し、化粧・衣裳・演技で時代考証を重視した新作群。成田屋公式は、明治十一年の上演をめぐる論争のなかで仮名垣魯文が「活歴史」と冷笑したのが語源だと伝える。
「肚芸」という表現
九代目が活歴時代に創造した心理主義的な表現方法。成田屋公式は、これが古典歌舞伎の役の創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えたと記す。
成田屋公式は、その数は十八種に限定せず、実際には三十二種とも四十種ともいわれると記す。
「九代目の型」「成田屋の型」
尊重される数々の狂言の演出を現代歌舞伎に残したと成田屋公式は記す。
代表的な芸・役・演目
明治二十年(1887)四月の天覧劇で勤めた。
『北條九代名家功』北條高時
明治十七年(1884)の活歴物。成田屋公式は、天覧劇でも『高時』を上演したと記す。
『天衣紛上野初花』河内山宗俊
明治十四年(1881)、河竹黙阿弥作。若い頃から黙阿弥作品の主要人物を演じた。
『極付幡随長兵衛』幡随院長兵衛
明治十四年(1881)、河竹黙阿弥作。
『紅葉狩』
明治二十年(1887)初演の舞踊。九代目は舞踊の名手でもあったと日本芸術文化振興会は記す。
その時代の歌舞伎
幕末から明治へ、芝居町は猿若町の時代を終え、新富座や歌舞伎座の時代へ移る。西洋にならって演劇を高尚なものにすべきだという声が政府関係者や劇場主のあいだに起こり、明治十九年には演劇改良会が結成された。十二代目守田勘弥は新富座でガス灯を用いるなど劇場の改革を進め、活歴物や松羽目物が生まれる。一方で活歴は偏狭で退屈なものと受けとめられ、観客の支持を得られないまま次第に演じられなくなっていった。
同じ頃、世の中では
- 1886日本社会
演劇改良会の結成
伊藤博文の女婿であった末松謙澄が中心となり、演劇の旧弊打破を主眼として明治十九年に設立された。渋沢栄一なども加わり、花道やチョボの廃止、女優の登用といった激しい議論もあったが、二、三年で立ち消えになったと成田屋公式は記す。
- 1893芸と演目
河竹黙阿弥の死
江戸から明治までをまたいで活躍した作者が没した。新しい時代の要請に応じた作品にも取り組みつつ、失われた江戸の面影を映す世話物を書き続けた稀有な作家だったと日本芸術文化振興会は記す。
- —芸と演目
「新歌舞伎」の胎動
演劇改良運動の影響もあり、坪内逍遥のような文学者が歌舞伎に関わりやすくなった。明治後半から昭和初期にかけて、歌舞伎の外部の作者が書いた作品が上演されるようになっていく。
時代との接点
- 1868-09日本社会
養父の横死と、幕末から明治への転換
明治元年九月、養父の河原崎権之助が強盗に殺害されるという事件に遭う。養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名し、市村座の座頭となったと成田屋公式は記す。
- 1878-06芸と演目
新富座と演劇改良運動
移転や焼失を経て近代的な大劇場として再建された新富座で、従来の演技・演出を大胆に変え、写実主義的な活歴物を積極的に上演して演劇改良運動に力を注ぎ始めた。しかし長く江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買ったと成田屋公式は記す。
- 1887-04日本社会
天覧劇
日本芸術文化振興会は、明治二十年四月に外務大臣井上馨邸において明治天皇による観劇が実現したと記す。成田屋公式は、麻布の井上邸の仮設舞台に明治天皇および皇后・皇太后が臨席し、九代目が『勧進帳』ほかを勤めたこと、これが俳優の社会的地位の向上に大きく寄与したこと、我が国で電気照明を初めて使った舞台であったことを伝える。
- 1894芸と演目
古典歌舞伎への回帰
活歴が支持を得られないなか、明治二十七年ごろからは再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになったと成田屋公式は記す。日本芸術文化振興会も、十九世紀末頃には江戸時代から続く演目をより洗練された形で演じ、後世の規範となる舞台をみせたとする。
この代から、次の代へ
活歴そのものは観客の支持を得られなかったが、そこで培われた「肚芸」は古典の役づくりに応用され、近代歌舞伎の土台となった。天覧劇を経て俳優の社会的地位は大きく変わり、「九代目の型」は今も舞台に生きている。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
明治二十年(1887)の天覧劇で、何が上演されたか
『勧進帳』と『高時』を勤めたとする。
『勧進帳』ほかを勤めたとし、演目を数え上げていない。
当サイトの扱い
『勧進帳』はどちらの記述にも含まれるため本文でそのまま記し、『高時』は「成田屋公式は天覧劇でも上演したと記す」という形で出典を示して書いています。日程・全演目・出演者を一次資料で確認できていないため、上演演目の一覧は掲げていません。
現在にも残る影響
「九代目の型」「成田屋の型」
数々の狂言の演出が、現在も規範として受け継がれている。
七代目の歌舞伎十八番に続いて定められた家の芸。『紅葉狩』などが含まれる。
俳優の社会的地位
天覧劇を機に大きく変わったとされ、以後の歌舞伎の位置づけを決めた出来事とみなされている。