歌舞伎D-13
10

明治から昭和へ

十代目

市川團十郎

團十郎のいない時代に、宗家を守る

追贈(生前の襲名ではありません)

生没年
1882–1956-02-01
團十郎を名乗った期間
前名・俳名
堀越福三郎(本名。芸名としても用いた)/五代目市川三升(1917年11月に改名)
十代目市川團十郎(五代目市川三升)の古写真。和服姿で室内に立ち、静かに正面を見つめる晩年の姿
『市川三升(十代目市川團十郎)』昭和26年(1951)撮影。『演劇界』第10巻第1号(演劇新社、1952年1月)掲載演劇新社『市川三升(十代目市川團十郎)』『演劇界』第10巻第1号(1952年1月)(パブリックドメイン: 1957年以前に発行された日本の写真, Wikimedia Commons)

30秒で分かる、この代の團十郎

日本橋の豪商の次男に生まれ、慶応義塾を出て九代目の長女実子の婿となった。九代目没後の明治四十三年に役者を志し、大正六年に五代目市川三升と改名。團十郎不在の時代に宗家を守り、埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演した。生前に團十郎を名乗ることはなく、没後に十代目の名を贈られている。

受け継いだもの

  • 九代目の娘婿として

    成田屋公式は、慶応義塾を卒業後、九代目の長女実子の聟となったと記す。同公式の『團十郎事典』は、九代目の長女実子が二代目翠扇、次女扶伎子が旭梅で、二人とも男子の相続者を持たなかったと伝える。

  • 市川宗家という立場

    成田屋公式は、つねに市川宗家としての権威を守り抜こうとする意欲と責任感を持ち、未曾有の團十郎空白期間に宗家としてなすべき役を勤めたと記す。

  • 歌舞伎十八番という遺産

    天保三年(1832)に七代目が制定を公表した十八の演目のうち、当時上演の絶えていたものが少なくなかった。成田屋公式は、この代がそれらを次々と復活上演したことを特筆すべき業績とする。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 埋もれた歌舞伎十八番の復活上演

    成田屋公式は、『解脱』『不破』『象引』『押戻』『嫐』『七つ面』『蛇柳』などの埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演して見せたことが特筆すべき業績であろうと記す。

  • 実業の家から役者の道へ

    成田屋公式は、日本橋の豪商稲延利兵衛の次男として生まれ、九代目没後の明治四十三年(1910)に突然役者を志したと記す。上方役者の初代中村鴈治郎を頼って巡業先を訪ね、ひそかに端役で舞台を踏み、同年十月に大阪中座で本名の堀越福三郎を芸名として正式に披露をした(二十九歳)。

  • 五代目市川三升への改名

    大正六年(1917)十一月、歌舞伎座で歌舞伎十八番の『矢の根』を演じ、五代目市川三升と改名した(三十六歳)と成田屋公式は記す。三升は市川宗家の定紋の名でもある。

  • 技芸の限界を引き受ける

    成田屋公式は、素人が中年過ぎてから踏み込んだ役者修行だったから所詮技芸に難があり、彼の努力にかかわらず役者としての評価はかんばしいものではなかったと率直に記す。それでも宗家としての務めは果たし続けた。

代表的な芸・役・演目

  • 『矢の根』曽我五郎

    大正六年(1917)十一月、歌舞伎座。この舞台で五代目市川三升と改名した。成田屋公式は『矢の根』を歌舞伎十八番の一つとして挙げる。

  • 復活上演した歌舞伎十八番

    成田屋公式が挙げるのは『解脱』『不破』『象引』『押戻』『嫐』『七つ面』『蛇柳』。いずれも当時ほとんど上演されていなかった演目である。

  • 初舞台となった端役

    明治四十三年(1910)、初代中村鴈治郎の巡業先を訪ね、ひそかに端役で舞台を踏んだと成田屋公式は記す。同年十月、大阪中座で正式な披露を行った。

その時代の歌舞伎

九代目の没後、團十郎の名は半世紀以上にわたって舞台から消えていた。その間の歌舞伎は、日本芸術文化振興会によれば、坪内逍遥ら外部の文学者が書く「新歌舞伎」が盛んに上演される一方、五代目中村歌右衛門・六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの名優が輩出して「東京歌舞伎の黄金時代」と呼ばれた時期にあたる。やがて第二次世界大戦で劇場の多くが焼失し、占領下では『仮名手本忠臣蔵』などがいったん上演を禁止される。昭和二十六年(1951)の歌舞伎座再建を経て復興に向かう、その全体をこの代は宗家として見届けた。

同じ頃、世の中では

  • 1910–1935芸と演目

    「新歌舞伎」の流行と復活上演

    日本芸術文化振興会は、明治後半から昭和初期にかけて歌舞伎の外部の作者が書いた作品が上演されるようになり、二代目市川左團次がこれを盛んに上演したと記す。左團次は歌舞伎十八番の『鳴神』など長く演じられなかった演目も復活上演させている。

  • 1910–1940芸と演目

    東京歌舞伎の黄金時代

    日本芸術文化振興会は、五代目中村歌右衛門・六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎・十五代目市村羽左衛門・六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門などの優れた俳優が輩出し、東京歌舞伎の黄金時代と呼ばれたと記す。上方では初代中村鴈治郎が大阪の顔と呼ばれた。

  • 1945日本社会

    戦争による焼失と、占領下の上演禁止

    日本芸術文化振興会は、第二次世界大戦によって歌舞伎の劇場のほとんどは焼失し、多くの人材も失われたと記す。占領下でようやく再開された歌舞伎も、『仮名手本忠臣蔵』など多くの演目が軍国主義や身分制度を肯定するものとしていったんは上演を禁止された。

  • 1951日本社会

    歌舞伎座の再建

    日本芸術文化振興会は、昭和二十六年(1951)に歌舞伎座が再建され、上演された『源氏物語』が大きな反響をよんだこともあり、歌舞伎は復興し始めたと記す。この五年後にこの代は世を去っている。

時代との接点

  • 1910芸と演目

    初代中村鴈治郎を頼って舞台へ

    成田屋公式は、九代目没後の明治四十三年(1910)に突然役者を志し、上方役者の初代中村鴈治郎を頼って巡業先を訪ねたと記す。日本芸術文化振興会は同じ頃の鴈治郎を、近代的な和事の芸を完成させ大阪の顔と呼ばれた俳優として紹介している。

  • 1917–1956芸と演目

    團十郎空白期間を宗家として埋める

    成田屋公式は、未曾有の團十郎空白期間に宗家としてなすべき役を勤め、埋もれていた歌舞伎十八番を次々と復活上演したと記す。名跡の不在を、家の芸の上演によって埋めようとした期間にあたる。

  • 1956芸と演目

    没後に贈られた十代目の名

    成田屋公式は、昭和三十一年(1956)二月一日に七十三歳で没し、告別式の当日、後継者の海老蔵(のちの十一代目團十郎)が故人に十代目團十郎の名跡を追贈したと記す。『團十郎事典』はこれを「死後十代目團十郎を諡される」とも書いている。生前の襲名ではない。

この代から、次の代へ

役者としての評価はかんばしくなかったと成田屋公式は率直に記す。それでも團十郎不在の五十余年、宗家の権威を守り、埋もれていた十八番を舞台に戻した。その積み重ねが、養子である十一代目が名跡を継ぐ土台になった。

現在にも残る影響

  • 舞台に戻された演目

    『解脱』『不破』『象引』『押戻』『嫐』『七つ面』『蛇柳』は、この代の復活上演を経て歌舞伎十八番の現行の上演につながっている。

  • 「追贈」という名跡の受け渡し方

    生前に襲名せず、没後に名跡を贈られた例。襲名とは区別して扱う必要がある。

  • 市川宗家の連続

    團十郎の名が舞台になかった間も、宗家としての務めは続けられた。