昭和・戦中から戦後へ
十一代目
市川團十郎
「海老さま」と呼ばれ、五十九年ぶりに團十郎を戻す
- 生没年
- 1909-01-06–1965-11-10
- 團十郎を名乗った期間
- 1962-04–1965-11-10
- 襲名時の年齢
- 53
- 前名・俳名
- 堀越治雄(本名)/初代松本金太郎(初舞台の名)/九代目市川高麗蔵(1929年に襲名)/九代目市川海老蔵(1940年に襲名)/五粒(俳名)/二九亭十八(作者としての筆名)

30秒で分かる、この代の團十郎
七代目松本幸四郎の長男に生まれ、十代目の養子となって九代目市川海老蔵を襲名した。戦後の『助六』や『源氏物語』で人気を集め「海老さま」と呼ばれる。大きすぎる名跡への逡巡を経て、昭和三十七年四月、九代目の没後途絶えていた團十郎を五十九年ぶりに復活させた。襲名から三年半で病没。
受け継いだもの
七代目松本幸四郎の長男として
成田屋公式は、明治四十二年(1909)一月六日に七代目松本幸四郎の長男として生まれ、弟に八代目松本幸四郎(のちの白鸚)と二代目尾上松緑がいたと記す。歌舞伎俳優名鑑はこの三人を高麗屋三兄弟と呼ぶ。父の七代目幸四郎は、日本芸術文化振興会が東京歌舞伎の黄金時代を担った名優の一人に挙げている。
歌舞伎俳優名鑑は、父の師であった九代目市川團十郎の娘婿の五代目市川三升に望まれて養子となり、市川宗家の後継者になったと記す。養子となった年は成田屋公式が昭和十四年(1939)、歌舞伎俳優名鑑が昭和十五年(1940)四月とし、両者で一致していない。
昭和十五年(1940)五月、東京歌舞伎座で九代目市川海老蔵を襲名(三十一歳)。歌舞伎俳優名鑑は、その襲名披露興行で市川家の歌舞伎十八番『ういらう』の外郎売実は曽我五郎を演じたと記す。
生み出した・変えた・復活させたもの
歌舞伎俳優名鑑は、昭和二十一年(1946)に東京劇場で若手中心の『助六』が上演された際、六代目尾上菊五郎に推挙され、その教えを受けて助六を演じたと記す。成田屋公式もこの舞台から人気が出たとする。昭和二十六年(1951)の『源氏物語』の光君を経て「海老さまブーム」が起こった。
新作歌舞伎での仕事
文化デジタルライブラリーは、昭和戦後期の十一代目團十郎は新作歌舞伎でも足跡を残し、戦後復興期のスターとして人気を誇ったと記す。歌舞伎俳優名鑑は加藤道夫作『なよたけ』の文麻呂、大佛次郎作『若き日の信長』の織田信長、『築山殿始末』の信康などを挙げる。
昭和三十一年(1956)、養父の三升が没した。成田屋公式は告別式の当日に後継者の海老蔵が故人に十代目團十郎の名跡を追贈したと記し、歌舞伎俳優名鑑も養父・三升が没すると十代目團十郎を追贈したと記す。自らの襲名はその六年後になる。
一門の勉強会「荒磯会」
成田屋公式の『團十郎事典』は、料亭で父の十一代目團十郎が一門の弟子達に勉強会をさせたのが始まりで、正式に第一回を名乗って行われたのは昭和三十八年(1963)七月の砂防会館だったという十二代目の証言を載せる。会は昭和四十八年(1973)の第七回で終わった。名は九代目創始の荒磯模様に由来する。
代表的な芸・役・演目
昭和二十一年(1946)六月、東京劇場で演じて人気が出た役。昭和三十七年(1962)の十一代目襲名披露でも『勧進帳』の弁慶とともに披露狂言に選ばれている。
歌舞伎俳優名鑑は、昭和三十七年四・五月の歌舞伎座での襲名披露狂言を歌舞伎十八番の『勧進帳』の弁慶と『助六』の助六とする。
『源氏物語』光君
昭和二十六年(1951)三月、歌舞伎座。成田屋公式は舟橋聖一訳の『源氏物語』の光君を演じて大好評を得、このころから「海老さまブーム」がわき起こったと記す。歌舞伎俳優名鑑は記録的な大入りをとったとする。
『若き日の信長』織田信長
大佛次郎作の新作。歌舞伎俳優名鑑によれば、この役で昭和二十八年(1953)に第五回毎日演劇賞を受けている。
『八代目市川團十郎』八代目
歌舞伎俳優名鑑は、死の前年に歌舞伎座で郷田悳に依頼した新作『八代目市川團十郎』を上演し、代々の團十郎のなかで芸風が近いとされる八代目を演じたと記す。
その時代の歌舞伎
戦争で焼けた劇場が建て直され、歌舞伎が観客を取り戻していく時期にあたる。日本芸術文化振興会は、昭和二十六年(1951)の歌舞伎座再建と『源氏物語』の反響から歌舞伎が復興し始め、昭和三十七年(1962)には長く途絶えていた市川團十郎の名前が復活して、その襲名披露公演は「歌舞伎ブーム」が起こるほどの人気をよんだと記す。文化デジタルライブラリーは、この代を戦後復興期のスターとして紹介する。古典の継承をあらためて重視する動きは、没後の昭和四十一年(1966)の国立劇場開場へとつながっていく。
同じ頃、世の中では
- 1964メディア
白黒テレビが各家庭へ
総務省の通信白書は、白黒テレビが昭和三十年代において急速に家庭に普及し、三十九年(1964)には世帯普及率が九〇%に達したと記す。国民平均のテレビ視聴時間も昭和三十五年の五十六分から四十年には二時間五十二分へ増えている。
- 1965-04芸と演目
伝統歌舞伎保存会の第一次認定
歌舞伎俳優名鑑は、昭和四十年(1965)四月に伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定が行われたと記す。古典の継承を制度として支える枠組みが整えられていった時期にあたる。
- 1966日本社会
国立劇場の開場
日本芸術文化振興会は、昭和四十一年(1966)に伝統芸能の保存と振興を目的とする国立劇場が開場し、歌舞伎特有の機構を備えた舞台で伝統的な歌舞伎の上演を開始したと記す。この代が没した翌年にあたる。
時代との接点
- 1941–1945日本社会
戦時下の慰問興行
成田屋公式は、昭和十六年(1941)に太平洋戦争が始まり、慰問興行などに従ったと記す。九代目市川海老蔵を襲名した翌年にあたる。
- 1951-03芸と演目
再建された歌舞伎座の『源氏物語』
日本芸術文化振興会は、昭和二十六年(1951)に歌舞伎座が再建され、上演された『源氏物語』が大きな反響をよんだこともあり歌舞伎は復興し始めたと記す。成田屋公式は、その三月に歌舞伎座で舟橋聖一訳『源氏物語』の光君を演じて大好評を得たと記す。復興の象徴となった舞台に立っていた。
- 1962-04芸と演目
五十九年ぶりの團十郎と「歌舞伎ブーム」
成田屋公式は、昭和三十七年(1962)四月に歌舞伎座で十一代目團十郎を襲名し、九代目が没してから五十九年間にわたって空白だった市川團十郎が誕生したと記す。日本芸術文化振興会は、この襲名披露公演が大変な人気をよび「歌舞伎ブーム」が起こるほどだったと記す。
- 1965-03芸と演目
三兄弟が並んだ口上
成田屋公式の『團十郎事典』は、昭和四十年(1965)三月の歌舞伎座、七代目幸四郎追善興行で、故白鸚・松緑と三人兄弟が素の紋付袴姿で口上に並び評判になったと伝える。訥弁と思われていた十一代目の口上がユーモアあり弁舌爽やかで、両弟を驚かせたという。没する年の舞台である。
この代から、次の代へ
五十九年ぶりに團十郎を舞台へ戻したが、その在位は三年半にとどまった。文化デジタルライブラリーは戦後復興期のスターと記し、歌舞伎俳優名鑑はその早すぎる死を戦後歌舞伎最大の痛恨事と伝える。名跡は十九歳の長男へ渡った。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
市川三升(十代目團十郎)の養子となった年
昭和十四年(1939)に市川三升の養子となったとする。
昭和十五年(1940)四月に五代目市川三升の養子となり、同年五月に九代目市川海老蔵を襲名したとする。
当サイトの扱い
出典によって一年の差があります。本文では両論を併記し、いずれかに断定していません。一次資料での確定ができるまで、年を一つに決めない扱いとしています。
團十郎の名跡が舞台になかった年数
九代目の没後、五十九年間にわたって空白だったとする。
およそ六十年ぶりの襲名であるとする。
当サイトの扱い
本文は成田屋公式の「五十九年」を採っています。数え方によって「およそ六十年」とも記されるため、年数そのものよりも、九代目の没後から十一代目の襲名まで名跡が舞台になかったという事実の方を確かなものとして扱っています。日本芸術文化振興会は年数を記していません。
現在にも残る影響
五十九年の空白を経て名跡が舞台に戻った。襲名が家の内側だけでなく、観客と時代の側からも待たれる出来事になりうることを示した例である。
襲名披露に選ばれた二演目は、以後の代の襲名でも中心に置かれている。
歌舞伎俳優名鑑は、その芸域を長男の十二代目團十郎、孫の当代が確実に継承していると記す。