歌舞伎D-13
08

天保から嘉永へ

八代目

市川團十郎

猿若町の賑わいを呼び戻した、美貌の人気役者

生没年
1823–1854-08-06
團十郎を名乗った期間
1832-03–1854-08-06
襲名時の年齢
10
前名・俳名
市川新之助(初出座の名)/六代目市川海老蔵

30秒で分かる、この代の團十郎

天保三年三月、十歳で八代目を襲名。面長の美男で、粋で上品な色気と甲走った高い口跡をそなえ、代々とは異なる團十郎像を築いた。天保の改革で江戸三座が猿若町へ移されたのち、賑わいを取り戻す原動力はその人気だったと成田屋公式は記す。嘉永七年八月、大坂で自ら命を絶った(三十二歳)。

受け継いだもの

  • 十歳での襲名と、歌舞伎十八番の制定

    天保三年(1832)三月、市村座で八代目團十郎を襲名した(十歳)。同じ折に父の七代目は五代目海老蔵となり、市川家に伝わる演目から十八を選んだ『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版している。八代目の襲名と、家の芸を目録として示す試みは同じ舞台の出来事だった。

  • 生後一か月余りでの初出座

    成田屋公式は、文政六年(1823)、生後一か月余りで新之助の名で市村座の顔見世に出て、碓氷貞光一子荒童丸の役で舞台に出たと記す。文政八年(1825)十月、生まれた弟に新之助の名を譲り、自身は六代目海老蔵を襲名した(三歳)。

  • 家の芸『助六』

    成田屋公式は、八代目が助六の舞台で「水入り」を勤めたことを伝える。歌舞伎十八番のひとつであり、市川家に代々伝わる演目にあたる。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 代々とは違う團十郎の風姿

    成田屋公式は、八代目は面長で非常な美男子であり、代々の團十郎とは違った型の風姿を備えていたと記す。粋で、上品で、色気があり、それでいていや味がなく、澄ましていても愛嬌があったという。荒事の家に、荒事の体躯とは異なる魅力の當主が現れた。

  • 甲走った高い口跡

    成田屋公式は、音声は甲走って高く、さわやかで朗々とした名調子だったという、と伝える。荒事の重く太い発声とは異なる声の魅力が、この代の人気を支えたひとつと考えられる。

  • 清元『落人』の初演

    成田屋公式は、清元の『落人』の初演は八代目團十郎であり、詞中の「白猿」は父七代目の俳号を洒落たものだと伝える。作詞は七代目贔屓の三升屋二三治で、今も歌舞伎舞踊としてよく上演される。

代表的な芸・役・演目

  • 『助六』

    成田屋公式は、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水をめぐる噂を伝える。歌舞伎十八番のひとつ。

  • 清元『落人』

    成田屋公式は、この踊の初演は八代目團十郎だと記す。お軽が勘平の顔を見て「その悪縁か白猿に、よう似た顔の錦絵」と唄う詞は、父七代目の俳号を洒落たもの。

  • 『団十郎娘』(『近江のお兼』)

    成田屋公式は、七代目が文化十年に近江八景になぞらえた八変化の所作事の一つで、八代目も九代目も踊っていると記す。琵琶湖のほとりの大力の娘が荒馬を下駄ばきのまま取り抑えたという言い伝えを長唄舞踊にしたもの。

その時代の歌舞伎

八代目が團十郎であった二十二年は、天保の改革が江戸の芝居を締めつけた時期にあたる。文化デジタルライブラリーによれば、老中水野忠邦らの強硬派は歌舞伎そのものを取りつぶそうとしたが、遠山景元らが反対し、結局は火災をきっかけに江戸三座を郊外の浅草へ移すことで決着した。天保十二年から十四年にかけて引っ越しは完了し、猿若町と名づけられた新しい芝居町には人形浄瑠璃の小屋も軒を並べる。以後、明治前期までの約三十年が「猿若町時代」と呼ばれる。この頃の江戸歌舞伎は顔見世興行の賑やかさを失う一方、寄席や見世物との行き来が活発になっていった。

同じ頃、世の中では

  • 1841–1843日本社会

    天保の改革と、娯楽の取り締まり

    文化デジタルライブラリーは、天保の改革(天保十二年〜十四年)が幕藩体制の立て直しをめざすもので、その一環として贅沢の徹底的な取り締まりが行われ、高価な装身具や料理、小説や錦絵なども贅沢品として制限されたと記す。芝居や寄席などの庶民の娯楽も大きく制限された。

  • 1841–1843日本社会

    江戸三座の猿若町移転

    文化デジタルライブラリーは、歌舞伎を取りつぶそうとする強硬派に穏健派が反対し、火災をきっかけに、それまで江戸の中心地にあった芝居小屋を当時は郊外だった浅草に移転させることで決着がついたと記す。天保十二年から十四年の間に江戸三座の引っ越しは完了し、「猿若町」と名づけられた新しい芝居町が生まれた。

  • 芸と演目

    顔見世の衰退と、寄席・見世物の活況

    文化デジタルライブラリーは、この時期の江戸歌舞伎について、かつて「江戸の花」と讃えられた十一月の顔見世興行が衰退し、役者の入れ替わり時期が一月に変わって興行の賑やかさもなくなっていったと記す。一方で寄席や見世物が手軽な娯楽として一層活発になり、寄席芸の演目が歌舞伎作品の題材になるなど、さまざまな娯楽が交流するようになった。

時代との接点

  • 1842–1849日本社会

    父の追放と、成田不動への日参

    成田屋公式は、親孝行でも知られ、父の七代目が追放された時、毎朝精進茶断ちをして蔵前の成田不動の旅所に日参し、父の無事と赦免を祈ったと記す。これを理由に町奉行から表彰され、銭十貫文を貰ったという。歌舞伎を締めつけた天保の改革と、家の信仰とが交わる出来事にあたる。

  • 1842芸と演目

    猿若町の客足を呼び戻す

    成田屋公式は、江戸三座が強制的に浅草の猿若町へ移転させられ、都心を離れた所へ移されて当初は客足も減ってしまったが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻し、その原動力には八代目の人気が大きかったと記す。

  • メディア

    人気そのものが売り買いされる

    成田屋公式は、当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶の水で白粉を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたという、と伝える。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして御殿女中たちが錦の守り袋に入れ肌守りにしていたとの伝説もあった、とも記す。いずれも成田屋公式が噂・伝説として書いているものである。

  • 1854-07-28–1854-08-06日本社会

    大坂への旅と、その死

    嘉永七年六月、大坂にいた父の海老蔵を訪ねようと江戸を発ち、途中の名古屋で興行中の父と合流して舞台に出演した。七月二十八日には父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをしている。大坂での初日を迎えた八月六日の朝、島の内御前町の旅館で自ら命を絶った(三十二歳)。成田屋公式は原因は不明とする。

この代から、次の代へ

その死後、團十郎の名は明治七年に九代目が襲名するまで二十年ほど空白となったと文化デジタルライブラリーは記す。人気は死後も衰えず、三百種を超える死絵が出版された。江戸の町がひとりの役者に注いだ関心の大きさを、その数量が今に伝えている。

資料によって異なる点

次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。

江戸三座の猿若町移転を、いつの出来事とするか

  1. 天保十二年から十四年(1841〜1843)の間に引っ越しが完了したとし、幅を持たせて記す。

    出典: 独立行政法人日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー「黙阿弥」歌舞伎をめぐる動き(江戸三座、猿若町へ移転)

  2. 天保の改革による歌舞伎への弾圧を1842(天保十三)年の出来事として、一年に定めて記す。

    出典: 独立行政法人日本芸術文化振興会「ユネスコ無形文化遺産 歌舞伎への誘い」歴史・発展期

当サイトの扱い

出典によって年の示し方の粒度が異なります。本文では幅のある記述(1841〜1843)を採り、移転を単一の年に断定していません。

現在にも残る影響

  • 三百種を超える死絵

    成田屋公式は、死後も人気は衰えず、三百種を超える膨大な死絵が出版されたと記す。ひとりの役者の死が江戸の版元を動かした規模を示す記録として残る。

  • 清元『落人』

    八代目が初演したとされる舞踊。今も歌舞伎舞踊としてよく上演される。

  • 空白となった二十年

    八代目の死から九代目の襲名(明治七年)まで、團十郎の名は二十年ほど名のる者がなかったと文化デジタルライブラリーは記す。名跡が常に続いてきたわけではないことを示す期間にあたる。