文化・文政から天保へ
七代目
市川團十郎
家の芸を、十八の演目として形にする
- 生没年
- 1791–1859-03-23
- 團十郎を名乗った期間
- 1800-11–1832-03
- 襲名時の年齢
- 10
- 前名・俳名
- 市川新之助(初舞台の名)/五代目市川海老蔵(1832年に改名)/成田屋七左衛門・幡谷重蔵(江戸追放中に用いた名)/白猿・三升・夜雨庵(俳名)

30秒で分かる、この代の團十郎
六代目の急逝により、わずか十歳で團十郎を継いだ。四代目鶴屋南北の狂言で色悪という役どころを確立する。天保三年、息子に名跡を譲る際、市川家に伝わる演目から十八を選んで刷り物を配った。のちに『勧進帳』初演を機に歌舞伎十八番の呼び名が定着したとされる。
受け継いだもの
生み出した・変えた・復活させたもの
天保三年(1832)三月、市村座で『助六』を演じ、息子の海老蔵に八代目團十郎を襲名させて自らは海老蔵と改名した折に、『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版して制定を公表したと成田屋公式は記す。
天保十一年(1840)三月、初代團十郎の百九十年記念興行として初演。成田屋公式はこれを松羽目物の始まりとする。日本芸術文化振興会は、この初演を機に十八の演目があらためて「歌舞伎十八番」と呼ばれ、次第に定着したと説明する。
「色悪」という役どころ
四代目鶴屋南北の狂言のなかで強烈な個性を発揮し、『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門に代表される、色男でありながら本性は悪人という役どころを確立したとされる。
「團十郎型」の演出
日本芸術文化振興会は、南北の多くの作品で三代目尾上菊五郎と共演した七代目が、後に「團十郎型」と呼ばれる演じ方を多く残したと記す。
代表的な芸・役・演目
その時代の歌舞伎
文化・文政年間の江戸はさらに人口が集中し、幕府の統制も弱まって享楽的な風潮が強まった。日本芸術文化振興会は、歌舞伎が暦や服飾にまで影響を与えるほど社会に深く根ざし、上方と江戸のあいだで俳優や作者の行き来が増えたと記す。やがて天保の改革が娯楽を厳しく取り締まり、天保十三年(1842)には江戸三座が浅草へ移されて猿若町という新しい芝居町が生まれた。
同じ頃、世の中では
- 1804–1830日本社会
享楽的な江戸と、新しい文芸・芸能
江戸へさらに人口が集中し、幕府による統制も弱まった。新しい文芸や美術、工芸、音楽が次々と生まれ、手軽に楽しめる講談や落語なども盛んになったと日本芸術文化振興会は記す。
- 1804–1829芸と演目
四代目鶴屋南北の活躍
社会の底辺で暮らす人々を赤裸々に描く「生世話物」を確立し、ケレンを多用した怪談物も創造した。複数の物語を混ぜ合わせる「綯い交ぜ」などの手法で、自由な作品を生み出した。
- 1804–1830メディア
印刷技術の進歩と、出版と結んだ興行
多色刷りなど印刷技術の進歩とともに、さまざまな出版物と連携した興行が多くなったと日本芸術文化振興会は記す。役者絵や番付が芝居の外へ広がっていく時期にあたる。
時代との接点
- 1842-04-06–1842-06-22日本社会
天保の改革による処罰と江戸追放
奢侈を禁じる天保の改革により、天保十三年四月六日に南町奉行所へ召喚されて手鎖のうえ家主預かりとなり、六月二十二日には江戸十里四方追放の刑に処せられたと成田屋公式は記す。日本芸術文化振興会も、五代目市川海老蔵が贅沢や奢りを理由に処罰され江戸から追放されたと記している。
- 1842-06-25日本社会
成田山新勝寺への寓居
追放を受けた七代目は成田屋七左衛門と改名し、六月二十五日に江戸を発って成田山新勝寺延命院に寓居したと成田屋公式は記す。家の屋号の由来となった寺が、そのまま身を寄せる場所となった。
- 1842–1849芸と演目
上方での旅興行
その後は大坂に住み、京・大津・桑名などの芝居にも出た。その際は市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田屋七左衛門などの名を使ったと成田屋公式は記す。
- 1849-12-26–1850-02-29日本社会
特赦と江戸への帰還
嘉永二年十二月二十六日の特赦により追放赦免の沙汰が出て、翌三年正月十六日に江戸へすぐ帰るようにという書状が届き、二月二十九日に江戸へ着いたと成田屋公式は記す。
この代から、次の代へ
十八の演目を選んで刷り物にしたことで、市川家の芸は目に見える「家の芸」となった。『勧進帳』は松羽目物の始まりとなり、のちに九代目が天覧劇で勤める演目にもなる。処罰と追放、流浪を経てなお、名跡と演目は次の世代へ渡された。