歌舞伎D-13
06

寛政

六代目

市川團十郎

折れし三升の菖蒲太刀 ── 二十二歳で絶えた代

生没年
1778–1799-05-13
團十郎を名乗った期間
1791-11–1799-05-13
襲名時の年齢
14
前名・俳名
徳蔵(初舞台の名)/四代目市川海老蔵

30秒で分かる、この代の團十郎

五代目の子として生まれ、門弟や親類の家を経てあらためて五代目の養子となった。寛政三年十一月、十四歳で六代目を襲名する。若く花のある美男役者だったと伝わる。寛政十一年三月に家の芸『助六』を初めて勤めて大当たりをとったが、翌月に休演し、句を残して二十二歳で没した。

受け継いだもの

  • 門弟と親類の家を経ての養子縁組

    成田屋公式は、五代目の子であるが門弟の市川升蔵が引き取り、いったん五代目の従弟にあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子になったのち、四歳の時に改めて五代目の養子になったと記す。名跡は血のつながりだけで動いたのではなく、門弟や親類の家を経て受け渡された。

  • 四代目市川海老蔵の名

    成田屋公式は、初舞台と同じ年の十一月、中村座で四代目海老蔵を襲名したと記す。海老蔵は初代の幼名にさかのぼる名で、市川宗家にとり團十郎に次いで重い名とされる。

  • 家の芸『助六』

    寛政十一年(1799)三月、初めて家の芸の助六を演じて大当たりをとったと成田屋公式は記す。のちに七代目が歌舞伎十八番に選ぶ演目のひとつにあたる。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 若く花のある團十郎

    成田屋公式は、若くて花のある美男役者だったらしく、楽屋口で出待ちをする娘たちがいたという、と伝える。似顔絵からは鼻筋の通った高い鼻と眉毛の形に特徴があり、父の五代目譲りの愛嬌のある風貌だったと想像される、とも記す。いずれも断定を避けた書き方であり、本文でも同じ粒度にとどめている。

  • 十九歳で背負った期待

    成田屋公式は、寛政八年(1796)に五代目が引退したため、十九歳の青年團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かったと記す。父の隠居によって、若い當主が一門を背負う形になった。

代表的な芸・役・演目

  • 『七種粧曽我』座頭徳都

    天明三年正月、中村座。徳蔵の名で五歳の初舞台と成田屋公式は記す。同資料は和暦と西暦の対応に一年のずれがあるため、ここでは和暦のみを示す。

  • 『助六』

    寛政十一年(1799)三月、初めて家の芸を勤めて大当たりをとった。結果としてこれが最後の当たり役となる。

その時代の歌舞伎

六代目が團十郎を名のった寛政年間は、成田屋公式が江戸歌舞伎の開花期と呼ぶ時期の終盤にあたる。日本芸術文化振興会によれば、常磐津節や富本節を伴奏とする所作事が育ち、立役によっても踊られるようになっていた。町では役者絵が盛んに版行され、成田屋公式は、隠居して鰕蔵と名のった父の五代目が写楽に描かれたことを伝える。舞台の人気が、そのまま版元の商品になる時代だった。

同じ頃、世の中では

  • 1789–1801芸と演目

    江戸歌舞伎の開花期の終盤

    成田屋公式は、安永・天明から寛政(1789〜1801)にかけての時期を、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であったと記す。六代目が團十郎を名のった八年間は、この時期の終盤にあたる。

  • メディア

    役者絵の隆盛と写楽

    成田屋公式は、写楽が描いた「竹村定之進」のモデルは、息子に六代目を継がせて鰕蔵と名のった後の五代目だとする。六代目が團十郎であった時期は、役者絵が江戸の版元にとって大きな商品であった頃にあたる。

  • 芸と演目

    所作事が立役にもひろがる

    日本芸術文化振興会は、常磐津節や富本節などの浄瑠璃が伴奏に取り入れられ、劇的な要素の強い所作事が生まれたこと、所作事が女方だけでなく立役によっても演じられるようになったことを記す。

時代との接点

  • 1791-11芸と演目

    市村座顔見世での襲名

    寛政三年十一月、市村座の顔見世で六代目團十郎を襲名した(十四歳)。同じ折に父の五代目は鰕蔵と改名しており、成田屋公式はその口上が大評判になって、それを目当ての客が押し寄せたと伝える。

  • 1796芸と演目

    五代目の引退と、若い當主の責任

    成田屋公式は、寛政八年に五代目が引退したため、十九歳の青年團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かったと記す。

  • 1799-03–1799-05-13芸と演目

    『助六』の大当たりから、二か月後の死へ

    成田屋公式は、寛政十一年三月に初めて家の芸の助六を演じて大当たりをとったが、翌月風邪のために休演し、「こはいかに折れし三升の菖蒲太刀」という句を残して、そのまま帰らぬ人となったと記す。同年五月十三日没(二十二歳)。

この代から、次の代へ

二十二歳での急逝により、名跡はただちに次の代へ渡ることとなった。翌寛政十二年十一月、十歳の七代目が市村座の顔見世でにわかに襲名する。家の芸『助六』を勤めて大当たりをとった一年は、短いながら六代目の名を残した。

資料によって異なる点

次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。

養子縁組と初舞台の年 ── 和暦と西暦のどちらを採るか

  1. 和暦の表記は「天明二年に四歳で改めて五代目の養子となり、天明三年正月に初舞台(五歳)」。これに従えば1782年と1783年にあたる。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「家系図 六代 市川團十郎」

  2. 同じページが和暦に添えている西暦は1781年と1782年。生年(1778)からの数え年とは、こちらの西暦の側が整合する。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「家系図 六代 市川團十郎」

当サイトの扱い

ひとつのページのなかで和暦と西暦が一年ずれており、どちらが正しいか判断できません。本文ではこの二件について西暦を記さず和暦のみとし、初舞台の年は年表にも入れていません。

現在にも残る影響

  • 「折れし三升の菖蒲太刀」

    休演中に残したとされる句。成田屋公式の家系図はこの句をそのまま六代目の見出しに掲げている。三升は市川家の紋。

  • 名跡は血縁だけで動かない

    門弟の家、親類の芝居茶屋を経て養子となった経歴は、市川の名跡が養子・門弟・親族を含む形で受け渡されてきたことを示す一例にあたる。