歌舞伎D-13
01

元禄

初代

市川團十郎

荒事を生み、江戸に「團十郎」を立てる

生没年
1660–1704-02-19
團十郎を名乗った期間
1673–1704-02-19
前名・俳名
海老蔵(幼名と伝わる)/才牛(俳名)/三升屋兵庫(狂言作者としての筆名)
竹を根こそぎ引き抜く曽我五郎に扮した初代市川團十郎。丹(に)の朱で塗られた腕と脚を大きく張り出し、太い墨線で荒々しく描かれた丹絵
鳥居清倍(初代)『市川團十郎(初代)の竹抜き五郎』元禄10年(1697)。東京国立博物館蔵・重要文化財鳥居清倍(初代)『市川團十郎(初代)の竹抜き五郎』東京国立博物館(パブリックドメイン, Wikimedia Commons)

30秒で分かる、この代の團十郎

元禄期の江戸で、人形芝居の金平浄瑠璃などから着想を得て、荒々しい武者の演技を「悪を討つ正義の主人公」の型へまとめ上げたとされる。神が現れて荒ぶる演出を伴うこの荒事が、以後の市川家の家の芸となった。舞台に出演中に刺され、四十五歳で没している。

受け継いだもの

  • 江戸の「荒武者事」

    團十郎以前から、荒々しい武者が立ち回る「荒武者事」という演技類型が江戸歌舞伎にあり、敵役系統のものと奴系統のものがあったと成田屋公式は記す。初代はそれらを統合したとされる。

  • 成田山不動への信仰

    成田屋公式は、初代の父が成田に近い幡谷の出で、家の栄えの基礎は出身地の守り神である不動尊にまつわる宗教劇にあったと伝える。屋号「成田屋」もこれに由来するとされる。

  • 金平浄瑠璃

    当時江戸で人気を集めていた人形芝居。坂田金時の子・金平が怪力で鬼神や悪人を退治する筋で、人形が岩を割る、首を引き抜くといった荒っぽい演出だったという。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 荒事の創始

    成田屋公式は、貞享二年(1685)市村座『金平六条通』の坂田金平役を荒事の創始とする説が有力とし、敵役をやっつける正義の味方として演じる新しい荒武者事を初代が創始したと記す。

  • 神霊事という見せ場

    主人公が一日の狂言の最後に荒人神の分身となって立ち現れる演出を伴っていたことが、従来の単なる「荒いこと」と團十郎の「荒事」とを分ける決定的な違いだったと成田屋公式は記す。

  • 自ら台本を書く

    学問・文芸に才能があり、狂言作者としても活躍。「三升屋兵庫」という筆名を用いたこともある。多くの荒事を自身で作ることで「團十郎の荒事」の性格が固まっていったとされる。日本芸術文化振興会も、初代を自ら台本を書いた作者でもあったと紹介する。

  • 俳諧への参入と俳名「才牛」

    元禄六年(1693)の上京を機に上方の俳人・椎本才麿に入門し、俳名を才牛とした。俳名を持つことは、以後の團十郎家に受け継がれる。

代表的な芸・役・演目

  • 『四天王稚立』坂田金時

    成田屋公式の『團十郎事典』は、延宝元年(1673)にこの舞台へ十四歳で扮した成果と好評をもって荒事の始とする。家系図の記述とは年次が異なるため、本文では併記にとどめている。

  • 『遊女論』不破伴左衛門

    延宝八年(1680)上演。成田屋公式が史料への初出とする役(二十一歳)。

  • 『金平六条通』坂田金平

    貞享二年(1685)市村座。荒事の創始とする説が有力とされる舞台(二十六歳)。

  • 『わたまし十二段』佐藤忠信

    元禄十七年(1704)二月十九日、市村座での出演中に生島半六に刺され没した。成田屋公式は原因は不明とする。

  • 歌舞伎十八番の母体となった演目群

    成田屋公式は、歌舞伎十八番に含まれた狂言はいずれも初代・二代目・四代目によって初演されたものの中から選ばれていると記す。

その時代の歌舞伎

元禄年間の前後、江戸や上方に大都市が形成され、町人による文化や芸術が次々と生まれた時期にあたる。日本芸術文化振興会は、各地から人が集まる新興都市の江戸では豪快で活気のあるものが好まれて荒事が生まれ、長い伝統を持つ京・大坂では洗練が好まれて和事が育ったと説明する。同じ頃、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じることが始まり、のちの義太夫狂言につながっていく。

同じ頃、世の中では

  • 1688–1704日本社会

    元禄の都市と町人文化

    江戸や上方で大都市が形成され、文芸・美術・工芸・音楽に新しい波が起こった。歌舞伎もこの流れのなかで大きく発展したと日本芸術文化振興会は記す。

  • 1688–1704芸と演目

    上方では和事と女方の芸が定まる

    荒事と同じ元禄年間、京・大坂では初代坂田藤十郎が写実的な演技で和事の人気を得、初代芳沢あやめが女方の芸を確立したとされる。

  • 1688–1704芸と演目

    人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ

    近松門左衛門らによって人形浄瑠璃が大きく発展し、構成力に優れたその作品を歌舞伎でも演じることが始まった。時代物・世話物という呼び分けもこの頃に生まれている。

時代との接点

  • 1685芸と演目

    流行の人形芝居から荒事へ

    成田屋公式は、荒事の創始とされる『金平六条通』について、当時江戸で人気を集めていた金平浄瑠璃からヒントを得たと伝えられると記す。

  • 日本社会

    成田不動への祈願と屋号「成田屋」

    成田屋公式は、初代が成田不動に願をかけて二代目をもうけたというほど両者の因縁は浅くないとし、屋号の成田屋もこれに由来すると記す。歴代團十郎の襲名では今も成田山新勝寺でお練りが行われる。

  • 1693日本社会

    上方への進出と俳諧入門

    元禄六年(1693)の暮れ、両親妻子を伴って京へ上るが、当時の京都人の気風に合わず評判はかんばしくなかったと成田屋公式は記す。在京は約一年。この上京を機に椎本才麿へ入門し、俳名を才牛とした。

この代から、次の代へ

荒事という型と、成田山不動への信仰に支えられた屋号を残した。日本芸術文化振興会は、その技法が二代目によって完成され、市川家を中心に現在まで受け継がれたと記す。自ら台本を書く姿勢もまた、家の芸を自分たちで作るという構えとして後代へ渡された。

資料によって異なる点

次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。

「市川團十郎」を名乗り始めた年と、荒事の始まりをどこに置くか

  1. 延宝元年(1673)、『四天王稚立』の坂田金時を十四歳で勤めたのが荒事の始まりであるとする。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「團十郎事典 あ行(荒事)」

  2. 史料に名が現れる最初は延宝八年(1680)『遊女論』の不破伴左衛門であり、荒事の創始は貞享二年(1685)『金平六条通』の坂田金平とする説を有力とする。

    出典: 成田屋(市川團十郎家)公式サイト「家系図 初代 市川團十郎」

当サイトの扱い

同じ成田屋公式のなかで年が一致していません。当サイトは「團十郎を名乗った期間」の始まりを暫定的に1673年としたうえで、襲名時の年齢は記していません。一次資料で確定できるまで、どちらか一方に寄せない扱いとしています。

現在にも残る影響

  • 荒事

    見得や隈取をともなう荒事は、今も市川家の家の芸として上演されている。

  • 屋号「成田屋」

    成田山新勝寺の不動明王への信仰に由来するとされる屋号。今も掛け声としてかかる。

  • 歌舞伎十八番の源流

    のちに七代目が選んだ十八の演目は、初代・二代目・四代目が初演したもののなかから採られている。