元禄末から享保
二代目
市川團十郎
荒事に和事のやわらかみを重ね、家の芸を確立する
- 生没年
- 1688–1758-09-24
- 團十郎を名乗った期間
- 1704-07–1735-11
- 襲名時の年齢
- 17
- 前名・俳名
- 二代目市川海老蔵(1735年に改名)

30秒で分かる、この代の團十郎
初代の急死を受け、元禄十七年(1704)に十七歳で襲名した。江戸和事の名人・生島新五郎の後ろ盾と指導を得て、荒事に和事や実事のやわらかみを重ねる新しい表現を身につける。『助六』『矢の根』『外郎売』などを初演し、隈取の様式性も整えて、のちに歌舞伎十八番と呼ばれる家の芸の骨格を築いた。
受け継いだもの
成田屋公式は、初代が成田不動尊に祈願をこめて授かった子であるという噂があり、「不動の申し子」ともいわれたと記す。元禄十年(1697)五月、中村座で初代が演じた『兵根元曾我』の山伏通力坊、のちに不動明王の分身という役で十歳の初舞台を踏んでいる。
元禄十七年(1704)、初代が舞台出演中に刺されて没する。成田屋公式は、同年七月に山村座で二代目團十郎を襲名したが、その後数年間は役不足に苦しんだと記す。
日本芸術文化振興会は、江戸の気風から生まれた荒事で初代がとくに人気を得たとし、その技法は二代目によって完成され、市川家を中心として現在まで受け継がれることになったと記す。
成田屋公式は、初代同様、俳諧を能くする文化人でもあったと記す。舞台の外に文事の名を持つ構えは、以後の團十郎家に受け継がれていく。
生み出した・変えた・復活させたもの
日本芸術文化振興会は、見得や六方といった力強い演技法、隈取という呪術的にも見える化粧法によって荒々しい活力を誇張する荒事の技法が、二代目によって完成されたと明記している。
和事・実事を取り込んだ広い芸域
成田屋公式は、後ろ盾となった生島新五郎が初代中村七三郎の芸を受け継いだ江戸和事の名人であり、その指導により二代目は豪放な荒事芸ばかりでなく、和事、実事・濡れ・やつしなど幅広い芸域を持つことができたと記す。
成田屋公式は、隈取りの様式性を完成させたのも二代目の功績だったと記す。荒事の主人公の顔をどう作るかという型が、この代で定まったことになる。
成田屋公式は、初代から継承した芸を洗練させたほか、『助六』『矢の根』『毛抜』などのちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸も創始し、いわゆる家の芸を確立したと記す。それを可能にしたのは、荒事の骨法を基本にしながら和事風のやわらか味をも取り入れる新しいタイプの表現法であったためだとする。
成田屋公式の『團十郎事典』は、二代目が『暫』の主人公の素袍に使ってから柿色は荒事の色となり、市川一門の色として裃には必ず使用することになったと記す。それ以前はあまり見なかった色だという。
代表的な芸・役・演目
成田屋公式は、正徳三年(1713)四月、山村座の二番目に助六を初演したとする(二十六歳)。三十六年後の寛延二年(1749)、六十二歳で三度目に演じた舞台によって、ほぼ現行に近い扮装と演出の「助六」劇が完成されたと記す。
成田屋公式は初演を享保三年(1718)一月、森田座とする。『團十郎事典』は、小田原の薬「透頂香」の効能をいいたてる見事な弁舌を真似た役で大当りをとり、家の芸となったと記す。
成田屋公式は初演を享保五年(1720)一月、森田座とする。曾我五郎が大きな砥石で矢の根を磨く正月の狂言で、大薩摩の太夫が山台を降りて年礼に来る演出などを伴う。
『景清』(『大銀杏栄景清』)
成田屋公式は初演を享保十七年(1732)九月、中村座とする。牢を破って荒々しい大立ち回りを演じることから「牢破りの景清」とも呼ばれる。のちに四代目が得意とする役どころとなった。
成田屋公式の家系図は、寛保元年(1741)に大坂へ上り『毛抜』の粂寺弾正を初演して実事の芸が上方でも認められたと記し、同公式の歌舞伎十八番のページは初演を寛保二年(1742)一月、大坂の佐渡嶋座とする。いずれも二代目海老蔵と名のっていた時期にあたる。
『曽根崎心中』徳兵衛ほか、近松の世話物
成田屋公式は、二代目が曽根崎心中の徳兵衛など、近松門左衛門作の世話物の主人公も演じて成功したと記す。日本芸術文化振興会は、近松の作品の多くが歌舞伎へ移され、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じる流れの先駆けとなったと説明する。
その時代の歌舞伎
元禄年間の前後に江戸と上方で大都市が形成され、江戸では豪快で活気のあるものが好まれて荒事が、京・大坂では洗練が好まれて和事が育ったと日本芸術文化振興会は説明する。同じ頃、近松門左衛門らによって人形浄瑠璃が大きく発展し、構成力に優れたその作品を歌舞伎でも演じることが始まった。江戸の芝居小屋は官許の四座に限られていたが、正徳四年(1714)の江島生島事件で山村座が取りつぶされ、以後は中村座・市村座・森田座の江戸三座となる。
同じ頃、世の中では
- —芸と演目
人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ
日本芸術文化振興会は、近松門左衛門が『曽根崎心中』など同時代の町人の情愛を描いた作品で人気を集め、『国性爺合戦』は歌舞伎へも移されて評判となり、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じる流れの先駆けとなったと記す。時代物・世話物という呼び分けもこの頃に生まれている。
- 1714日本社会
江島生島事件と、江戸三座の成立
成田屋公式の『團十郎事典』は、江戸時代に官許の大劇場は中村座・山村座・市村座・森田座の四座と決められていたが、正徳四年に江島生島事件で山村座が取りつぶされ、以後は三座となったと記す。支障があった際には都座・桐座・河原崎座が控櫓として代行した。
- —日本社会
千両が動く三ヶ所のひとつとしての芝居
成田屋公式の『團十郎事典』は、江戸で日に千両箱の値の金が落ちる三ヶ所として、朝は日本橋魚河岸、昼は江戸三座の芝居、夜は吉原遊郭を挙げる。芝居が都市の経済のなかで占めた位置を示す言い回しである。
時代との接点
- 1714日本社会
江島生島事件への連座
成田屋公式は、正徳四年(1714)に江島生島事件へ巻き込まれたが軽い処分ですみ、恩人の生島新五郎は遠島となったと記す(二十七歳)。『團十郎事典』は、連座しかけた原因の一つとして、近衛家の替紋「杏葉牡丹」の付いた御下賜品を江島から拝領して問題になったこと、時の奉行の頓智により市川家で使用する替紋と言い逃れて罪をまぬがれたことを伝える。前年に『助六』を初演した山村座は、この事件で取りつぶされている。
- 1721日本社会
千両役者となる
成田屋公式は、享保六年(1721)に千両の給金を与えられる「千両役者」となったと記す(三十四歳)。芝居が都市の経済の一角を占めた時代に、俳優個人の値がその言葉で示されたことになる。
- —芸と演目
上方の和事が江戸の荒事に流れ込む
成田屋公式は、後ろ盾となった生島新五郎が初代中村七三郎の芸を受け継いだ江戸和事の名人であり、その指導によって二代目が幅広い芸域を持ちえたと記す。日本芸術文化振興会が江戸の荒事と上方の和事を対にして説明する時代に、二代目はその両方を一身に重ねたことになる。
この代から、次の代へ
荒事の技法を完成させ、隈取の様式を整え、『助六』『矢の根』『外郎売』など後世の十八番の中核となる演目を残した。享保二十年(1735)、養子の升五郎に三代目を譲って二代目海老蔵となり、その死後は二代目松本幸四郎を養子に迎えて四代目を立てている。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
『毛抜』(粂寺弾正)の初演年
寛保元年(1741)、大坂へ上った際に粂寺弾正を初演したとする。
初演は寛保二年(1742)一月、大坂の佐渡嶋座であるとする。
当サイトの扱い
同じ成田屋公式のなかで年が一致していません。本文では両方の記述を併記し、いずれかに寄せていません。どちらの記述でも、二代目海老蔵と名のっていた時期の出来事である点は共通しています。
正徳四年(1714)の江島生島事件で、処分を受けたのかどうか
事件に巻き込まれたが、軽い処分ですんだとする。
連座しそうになったが、替紋をめぐる言い逃れによって罪をまぬがれたとする。
当サイトの扱い
処分があったのか、免れたのかで記述に振れがあります。本文では両方の記述を並べ、どちらとも断定していません。事件の経緯と二代目の処分の実際は、一次資料での確認ができていません。
現在にも残る影響
寛延二年(1749)に六十二歳で三度目に演じた舞台で、ほぼ現行に近い形が定まったと成田屋公式は記す。
荒事の主人公の顔を作る様式は、二代目の代で整えられたとされる。
のちに七代目が選んだ十八の演目は、初代・二代目・四代目が初演したもののなかから採られている。
荒事の色として、今も市川一門の裃に用いられる。